Scene3-6 笑顔という名の罠
岩と岩の間を、勢いよく水が流れていく。見た目以上に勢いがあるのか、人間一人の身体はあっという間に攫われてしまう。
「わ、た、たすけ、て」
茉莉は叫んだ。何度かものに掴まろうと試みる彼女だが、身体を打ちつけた影響からか、体勢を立て直すのは難しいようだった。まるで水の滑り台を落ちていくように、茉莉は川を流れていく。
不幸だったのは、そこが水深ひざ丈程度の浅い場所だったことだ。一見すると安全そうな場所だけに、アウトドア部員たちの危機感は薄く、すぐ近くにいた者たちも彼女の窮地に気付かない。
「ちょ、たすけ」
「あ。茉莉ちゃんだ。何してるの?」
「──ッ!?」
後輩部員の真横を通り過ぎるも、スルーされた彼女はそのまま下流へと押し流されていく。
ジャブジャブと川の中を走りながら、璃玖は叫んだ。
「おい、誰か茉莉を止めろ! 先生! 茉莉が溺れた!」
……どうしてか、誰も動こうとしない。慌てている璃玖の方を訝しげに見ている者もいる始末であった。
唯一、テントの近くにいた顧問の教師だけが動きを見せる。が、位置的に即座に救助に入れはしないだろう。
「チッ──!」
璃玖は舌打ちをすると、今度は岸の方へ向かって走った。陸を走った方が安全だし、追い付ける可能性も高いはずだ。
すると、数名で固まって水遊びをしていた後輩部員たちの一人が璃玖の背中に向かって大声で呼び掛けた。
「璃玖先輩、大丈夫っスよ! 茉莉先輩、楽しそうに笑ってますし!」
──笑っている? あれが? 楽しそう? どこからどう見ても、茉莉は必死でもがいているようにしか見えないじゃないか。
憤りを抱えたまま、璃玖は走る。周りをアテになど、できるか。
◇
璃玖が救助に躍起になっている頃、押し流される茉莉は水深の深いエリアまで行ってしまっていた。
川の色が緑色に変わる。辺りにもう人はいない。茉莉は何かを叫びながら必死に手を振るが、その声は救助に結びつかない。
「茉莉先輩!」
璃玖と同様に、ソラも茉莉を追っていた。璃玖とは違い、水を掻き分けるようにして川の中を進む。脚をもつれさせながら、決死の覚悟だ。
水の抵抗がソラの行手を阻む。川底が尋常じゃないくらいに滑る。石が、藻が、蘚が、ソラの邪魔をするべく足元を掬ってくる。
「……ッ、くそ!」
このままでは埒が開かないと思ったのだろう。ソラはいよいよ川の深みへと飛び込んだ。こうなれば、自分も流された方が追いつける可能性が高い。
「やめろ橋戸! 二次遭難になるぞ!」
叫んだのは顧問の教師だ。彼は脇に何かを抱え、川に向かって駆けてきている。
先生を待ってられないとばかりに、ソラは無我夢中で川を泳いだ。それが最も危険な行動であることなど、頭から抜けてしまっていた。
「なあ。茉莉先輩、本当に溺れてるんじゃ」
「嘘、だってさっきまで笑って──」
部員たちの中からようやく異常事態であることを認識した者たちが現れ始める。
彼らがいち早く事態に気付いて、茉莉が深みに行ってしまう前に止められていたら、きっと笑い話で済んだだろうに。
しかし後の祭り。今となっては助けようと川に飛び込む方が危険極まりない行為である。
無暗に助けに飛び込めば、助けに入った方が死ぬ。藁をも掴もうとする溺れる者に、強烈な力で抑え込まれるからだ。
「ソラ゛ぐん!」
「あっ、──ッ!?」
ソラは茉莉の手を取るも、次の瞬間には身体の全てが水の中にあった。しがみつかれ、その反作用で水底方向へ押し出されたのだ。
「(くそ、ぼくは何て馬鹿なことを)」
必死でもがく者の力を侮ってはいけない。ソラは闇雲に飛び込んだことを後悔していた。
茉莉は現在、おそらくパニック状態。もしここでソラも恐慌状態に陥れば、要救助者をいたずらに増やしただけになってしまう。しかも、呼吸もままならない分ソラの方が深刻だ。
「(こういう時、センパイならどうする……?)」
最も頼りがいのある者のことを想起したソラは、瞬間、急速に頭が冷えた。
ソラは水の中で身体を捻り、茉莉による拘束を弱めると、その隙に彼女の背後へと回り込む。
そして、自らの腰にセットされていた装置のレバーを思い切り引いた。それは、腰巻式のライフジャケット。ひとたび作動されれば気体が充填され、水上に浮かび上がることの出来る安全グッズだ。
「──ッはっ! センパイ、璃玖センパイ!!」
浮上したソラは、茉莉の脇を抱えるように背後から抱きついた姿勢で璃玖の名を呼んだ。彼ならば、きっと助けに来てくれると信じて。
◇
璃玖は飛び込んだ。顧問教師が持ってきた救命ロープを体に括り付け、自ら救護者に向かって、川の中へ。
「ソラぁ!! 掴まれ!!」
璃玖は懸命にソラの方へと腕を伸ばす。ソラもまた、璃玖へと手を差し出した。
璃玖は必死で泳ぎ、なんとかソラの指を捉えようと懸命に距離を詰めていく。
届け、届け。──届いた!
掴んだその手を、璃玖はぐいと引き寄せる。救護者二人をがっしりと抱き留め、璃玖は叫んだ。
「引いてください!」
璃玖に括り付けられたロープを、先生が引っ張った。遅れて陸に上がった部員たちも、懸命にロープを引く。
するとようやく、流されていた者たちの行き先のベクトルが変わった。ゆっくりと、川岸方面へ。やがて水深の浅い部分に辿り着くと、璃玖は立ち上がり、ソラと茉莉の腕を引いて安全な場所まで移動させた。
陸に上がる。息はとっくに切れている。心臓の拍動で周りの音が聞こえない。
力なくへたれこんだ璃玖が茉莉の方へ眼をやると、そこには笑顔の彼女がいた。
────否。笑顔に見えるその顔は、単に恐怖に怯え、引き攣っている表情だった。
部員たちがピンチを感じ取れなかった理由が、璃玖にもようやくわかった。頬を強張らせて必死に助けを求める茉莉の姿が、遠目からは楽しそうに手を振っているようにしか見えなかったのだろう。
「大丈夫だったか、茉莉」
「かし、のぉお……」
璃玖の胸に縋り付くようにして、茉莉は泣いた。肩が、腕が、指先に至るまでが恐怖に震えている。璃玖は茉莉の肩を抱くようにして、彼女を宥めた。
「センパイ……」
隣にいたソラが、不安げな表情のまま肩で息をしている。璃玖は空いていた左手で、ソラの頭に手を伸ばした。
「頑張ったな、ソラ。カッコ良かったぞ」
ソラは少しだけ安心したように目を細め、涙を拭うと、璃玖に言う。
「ありがとうございます。センパイも、カッコ良かったです」
こうして茉莉の水難事故は大惨事を回避し、事なきを得たのだった。




