幻の聖夜
「センパイ、ねえ、璃玖センパイ」
心地よいソプラノの声に耳元をくすぐられて、こそばゆく、身をよじる。
「ん」
寝ぼけ眼を擦りながら、俺は目を覚ました。
暖房の効いたベッドの上、少し湿ったシーツと掛け布団。
俺は自分の髪の毛をくしゃくしゃとやって、再び目を閉じようとした。
が、なぜか違和感を覚える。
いつも通りの癖のある黒髪だ。
だけど、こんなに短かったっけ。
「起きてください、センパイ♪」
「ソラ……?」
くすぐったさといい香りに誘われて、俺は声のした方へ顔を向ける。
俺の腕を枕がわりにした栗色の髪の少女、ソラ。
その灰色の瞳に俺の心は一瞬で吸い込まれてしまった。
同時に沸き起こるのは、どこか懐かしい感覚。
溢れんばかりの多幸感。
彼女の髪を撫でようと腕を伸ばして、そして、俺たちが何も身につけていないことに気がついた。
ソラの、小ぶりだが美しい胸の膨らみ。
白い肌に昨日の情事の跡がうっすらと赤みを差している。
「ふふっ、ゆうべはおたのしみでしたね」
「お前もたいがい盛り上がってただろ」
「えー、そうでしたっけー?」
「そうだよ。っつーかなんでいまさら敬語?」
「付き合って一年の記念日なんだから、初心に帰りたくて」
……付き合って一年?
心のどこかで疑念を覚えつつ、俺は思考を巡らせる。
やがて、ああ、そうかと思い出した。
「明日はクリスマス、だもんな」
一年前、クリスマスイブの日に俺たちは交際を始めた。
数々の苦難を乗り越えた上での、満を持してのお付き合いだった。
「去年の春までは、まさか璃玖と恋人同士になるなんて思ってもみなかったよ」
いたずらに笑う彼女に、「まったくだ」と俺もまた微笑み返す。
「後輩の、男の子を好きになるなんてな」
──俺とソラは、同性なのだ。
いや。
元・同性か。
昨年度、高校一年生であったソラは、近年世間を騒がせている超常が一つ、『性転換現象』に巻き込まれた。
結果生まれたのが、今まさに俺の目の前にいる美少女なのであるが、厄介なのは肉体の性別が変化しても、心の性別はそのままな点だった。
そのせいで数々の偏見の目で見られ続けていたソラの支えになりたい。
それが『彼女』の先輩かつ親友である俺の願いであり、ソラの味方であり続けることが俺の責務だった。
結果として、俺たちの距離は性転換前よりもグンと近づき、やがて性嗜好を踏み越えて恋人関係に至ったのである。
「ぼくが男の子でも女の子でも受け入れるって、璃玖は言ってくれた。男の子に戻っちゃったぼくに、プロポーズまでしてくれてさ」
「ああ、そうだったな」
ソラの言葉は真実だ。
あの日……交際を始めてから二ヶ月くらいしたときに、ソラは──。
あれ。
……なんだか、心がむずむずする。
この違和感は、なんだろう。
「ねえ、璃玖」
「なんだ?」
「ぼくね、行きたいところがあるんだ」
ソラが起き上がる。
カーテンの隙間から漏れる朝の光の中に映し出された彼女の柔肌は、どんな絵画よりも美しく、どんな花より可憐で、色っぽい。
思わず抱きしめたくなるが、我慢しよう。
きっと夢中になり過ぎてしまうから。
俺は情欲を催さないよう、ソラから視線を逸らしつつ、尋ねた。
「どこに行きたいんだ?」
彼女がふっと微笑む気配がする。
いや、実際に笑ったのだろう。
彼女の言葉の端に、軽やかな響きが乗っていた。
「それはもちろん、思い出の銀河山だよっ。センパイ♡」
そうか、と目を閉じた瞬間、俺は真っ白な世界にいた。
肌を刺すような冷たい空気が、雪がちに俺の頬をはたいている。
思わず肩をすくめ、登山服の隙間を縫う風をブロックした。
「見てよ璃玖、今日はホワイトクリスマスだね!」
ピンク色の登山服に身を包み、くるくるとターンしながらはしゃぎ回るソラ。
ニット帽の後ろから覗く栗色の髪が、風になびいてダンスする。
太陽みたいなソラの笑顔が、冬の寒さを忘れさせて、心の暖炉に火を灯してくれた。
ああ、こんな光景が見られるなんて。
俺はつくづく幸せ者である。
「登ろうか、銀河山」
「うん! 久しぶりの登山だね! 楽しみ!」
俺とソラは頷き合い、手を繋いで歩き始めた。
白銀の世界を。
ここは、俺たちの地元にある低山だ。
低山といっても標高は三百メートル以上あり、山頂にある山城へ向けてロープウェイも通っている。
見れば、麓駅にはクリスマスらしく、サンタやトナカイが列を作って並んでいた。
誰もが楽しそうに笑みを浮かべ、久方ぶりのホワイトクリスマスを楽しんでいるようだ。
しかし俺たちはロープウェイには用がない。
趣味の軽登山こそが、俺たちの絆を繋いだ最初のピースなのだから。
こんな特別な日に、文明に頼ろうとするなど野暮である。
とはいえ、今日は大雪。
この山を登るときにいつも使っていた登山道では滑落の危険があるだろう。
俺たちはこの山でいちばん初心者向けの遊歩道を歩くことにした。
思い返せば付き合い始めのあの日も、同じく初心者向けの遊歩道を二人で登ったっけ。
あの時は雪は積もっていなかったけれど、月明かりの夜を、ライトをいくつか身に着けてひた歩いた記憶がある。
────それに、そうだ。
私たちの間にできた子供とも、この道を歩いたはずだ。
どれもがかけがえのない大切な思い出である。
「……どしたの? 璃玖、ぼーっとして」
不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる彼女。
俺は小さく首を振って、なんでもないよ、とつぶやいた。
気を取り直して、進まなければ。
俺はいつものように、両頬をはたいて気合を入れなおす。
そこからの時間は、とても素晴らしいものだった。
ソラと二人でいろんなことを語らいながら山頂を目指した。
初めて出会った時のことや、当時中学生だったソラに勉強を教えていた日々のこと。
ソラが女の子になってしまった日のことや、高校生活を共に駆け抜けた仲間たちのこと。
俺たちの関係がネットでの炎上騒動につながったこと。
しかしそれがきっかけで俺たちは夢に向かって歩き始めたこと。
そして……。
「いろんなことが、あったね」
「ああ。お前と過ごす時間はどれも大切な宝物だよ」
「ぼくも、同じ気持ちだよ。いつも支えてくれて、ありがとうね、璃玖」
誰もいない山の頂。
見下ろせば、いっぱいに広がる銀世界。
地元の街も、遠くに見える隣県のビル群も、何もかもが白銀に輝いていた。
見上げれば、いっぱいに広がる銀河の世界。
地上の雪を全部かき集めて放り投げてできたのが、きっとあの星々なんだろう。
「俺のほうこそ、お礼を言わなきゃだよ。性転換現象に巻き込まれたとき、本当は心が折れそうだったんだ。ソラの前例があるからって強がって、平気なふりをしていたんだ。ソラがいてくれなかったら、俺は……私はダメになってたと思う」
「はは、あの時はぼくもどうしたもんかと思ったよ。まさか、璃玖まで女の子になっちゃうなんて思ってもみなかったし」
俺は隣で微笑む彼の姿を見た。
栗色の髪に灰色の瞳。
美少女から好青年へと成長したソラの姿を。
私は長く伸びた髪をかき上げながら、そのまなざしをうっとりと見つめる。
いつの間にか、私が来ている登山服も、大学生の時に愛用していた女性用のものに変わっていた。
俺が、女の子に……。
そうだ、どうして忘れていたんだろう。
──ソラが男に戻ったその日、今度は私が女になってしまったんだ。
元に戻る術がないと知った私は、璃玖から璃々花へと名を変えて、女性としての一歩を踏み出した。
不安で仕方なかったけれど、ソラがいるから頑張れた。
ここまで頑張ってこれたんだよ、私は。
だから。
「私は、俺は、最後にもう一度だけ男としてソラに会いたかったんだと思う。だから、こんな奇跡が起きたんだ」
俺がそう言うと、栗色の彼女は優しい目をしてうなずくのだ。
「奇跡。そうだね、これは奇跡かな。ぼくも、夫としてじゃなく、彼女として璃玖の隣に立っていられることが本当にうれしい。神様に、感謝しないと」
ソラは天を仰ぎ見た。
俺もつられて、星空を眺める。
虹色に揺らめくオーロラの下、俺たちは再び手をつないだ。
「……璃玖、子供たちは元気?」
ソラが尋ねる。
「ああ。家族睦まじくやってるよ。孫たちも、もう高校生になるんだよ」
「……そっか。幸せなら、何よりだね。本当はもう少し、みんなと一緒にいたかったけれど」
消え入りそうな声で、ソラは呟いた。
雪のように溶けてしまいそうな儚げなものを感じ、俺は視線をソラへと戻す。
俺の不安とは裏腹に、彼女は満足そうに笑みを浮かべていた。
「なあソラ」
「なに、璃玖」
俺はふっと口角を上げて、できるだけ柔らかな表情を作ろうと心掛けた。
なんだかんだ、ソラの前ではやっぱり強がっていたい男心だ。
俺は意を決し、言葉を紡ぐ。
「もう少ししたら、俺もそっちに行くから」
ソラは少し目を丸くして────。
やがて、いたずらっ子のように小悪魔なスマイルを浮かべながら、上目遣いで見つめ返してきた。
「だめですよ、センパイ。もう少しゆっくりしてから来てください。今度会うときはお土産話を、いっぱい聞かせてもらうんだから!」
「……ああ。わかった。できるだけ、 長く い 」
急な眠気にいざなわれて、俺は瞼を下した。
最後に見た彼女の顔は、いつも通りの優しい笑顔で。
やがて、暗転の向こうにソプラノの声を聴いた。
「おやすみなさい、璃玖センパイ」
***
そうして私は目を覚ました。
病室のベッドの上、チューブにつながれた細い体。
しわくちゃの手に、白髪交じりの長い癖毛。
ため息をつきたくなるほどに老いぼれた自分の姿がそこにある。
カーテンの向こうはやや薄暗く、空が灰色の毛布をかぶっている光景を思い起こさせた。
窓ガラスから、少しだけ冷気が漏れている。
雪でも降るのかもしれない。
「璃々花ばあちゃん、目が覚めたの?」
すぐ近くから声が聞こえ、私は視線を廊下側に移した。
そこにいたのは、かつての自分と少し似た、黒髪癖毛の若い青年。
私は彼に向って微笑みかけると、その名を呼んだ。
「来ていたんだね、ソナタ」
わが愛しの孫の名だ。
「今日は調子よさそうだね、おばあちゃん」
「ああ。ちょっとね。いい夢を見たんだ」
少し男っぽい口調になってしまったのは、やはり先ほどの夢の影響だろうか。
数年前に旅立った、人生の伴侶との久々のデート。
向こうで男の姿だったのは、性転換を経て数十年経ってなお、魂は男性のままであることの表れなのかもしれない。
ソナタは尋ねる。
「へぇ、ソラじいちゃんの夢?」
一発で当てられてしまった。
「すごいね。どうしてわかったの?」
するとソナタはいたずらに笑う。
懐かしき日に見た、彼のように。
「えー。だっておばあちゃん、寝言でじいちゃんの名前呼んでたし」
「うわ、恥ずかしいわ」
「嘘。本当は今日がクリスマスだから、きっとおじいちゃんが会いに来てるだろうなって推測して当てただけだよ」
ソナタは自慢げに胸を張るが、彼の表情はどちらかというと苦笑に近かった。
なぜならば、二年前のあの日、ソナタは俺以上にその別れを悲しんでいたからだ。
きっとあの日のことを思い返したのだろう。
二年前の十二月、仕事先でソラが急に倒れた。
舞台の稽古中に意識を失ったらしい。
緊急搬送された病院で懸命に治療をしたものの、結局、クリスマスの日にそのまま息を引き取った。
急性心不全、ということになったが原因はいまいちわかっていない。
度重なる性転換が原因じゃないかというのが医者の見立てだ。
「会いに、来てくれたのかな」
俺が呟くと、ソナタは小さく首肯した。
「そうだと思うよ。おじいちゃん、おばあちゃんのことすごく大事にしてたし」
私は自分の皺だらけの手をじっと見つめた。
それだけで、先程まで見ていた夢の中の、ソラの手の感触がまざまざと蘇る。
悲しくも、暖かな感触だった。
「あー、なんかしんみりさせちゃったかな。ごめん、璃々花ばあちゃん」
「良いんだよ。ちょっと幸せを噛み締めてただけだから」
「そっか。じゃあ僕、父さんたち呼んでくるよ」
ソナタはそう言って病室を後にする。
昔の自分によく似たその後ろ姿を私は静かに見送った。
「……もう少し、あの子の成長を見届けないとな」
私は独り言を一つ、手元のリモコンを操作する。
ベッドを起こし、カーテンに少しだけ隙間を開け、灰色の窓辺に目をやった。
決して良い天気とは言えないけれど、空の色は、大切なあの人の瞳の色にどこか似ていた。
舞い落ちる粒はきらきらと。
十二月二十五日の街を白く染めていく。
私は雲間を見つめ、目を細め、遠くの空にいるであろうその人に声をかける。
「メリークリスマス」




