二人の知らない馴れ初め話 その3
その男は、全身が黒づくめと言うわけではない。
スキニーのズボンとスニーカー、斜め掛けのバッグこそ真っ黒だが、七分袖のアウターとインナーシャツに至っては白である。
だのに、黒い髪や覇気の感じられない漆黒の瞳からは、黒のイメージしか湧いてこない。
故に、ソラは感じた。
『黒い男』が現れたと。
見た目は二十代後半くらいの普通の男。
外見に大した特徴は無く、強いて言えば、額から鼻筋にかけて伸びる傷跡が少々目立つくらい。
しかし、まとっている雰囲気は明らかに異常で、その場にいる全員が一斉に凍りついた。
男はソラたちの横を素通りして、不良少年たちへと近づいていく。
飄々とした態度で、彼は話しかけた。
「たまたま視界に入っちゃってさ。なに、この子を一人ずつ蹴ってく遊び?」
男は璃玖のそばにしゃがみ、泥だらけになった彼の頬をペチペチと叩きながら言った。
呆気に取られている少年たち。
しかしその中で、金髪の中学生が声を荒げる。
「なんだよおっさん! 俺たちに文句でもあんのかよ!」
腕を組み、男を見下ろす姿勢で睨む金髪。
……だが。
「おい」
すかさず長髪が金髪の肩を叩いて、首を小さく横に振った。
お前は黙っとけ、ということらしい。
そんな少年たちのやりとりなど気にも止めず、男は璃玖の顎をクイと持ち上げながら質問を続けた。
「この子を一発ずつ攻撃して、一番ダメージ入れた人が勝ちって感じ?」
この問いには長髪が答えた。
「……正確には、初めに泣かせたヤツっすね」
「ふぅん。なんていうかさぁ」
男はにこりと笑う。
「ヌルいよね。全然わかってない♪」
「なっ──!」
にわかに不良たちが色めき立つ。
露骨な煽り文句に、発展途上の彼らの精神はいとも容易くメーターが振り切れた。
一人を除いて。
「うっせぇお前ら! ちょっと黙ってろ!」
長髪が大声を上げて仲間を制した。
そして、震える声で男に尋ねる。
「……何が言いたいんすか、奏夜さん」
どうやら彼はこの男の存在を知っているらしい。
奏夜と呼ばれた男は目を細め、嫌味のない笑顔で少年に微笑みかけた。
「いやね。このタイプは経験上、自分の痛みでは泣かないよ。俺だったら『一番最初に歯を折った人が勝ち』とか、『折った骨の本数が多い人が勝ち』とかそんなルールにするかなって」
「いや、流石にそれは」
「なんで? 基準が明確だから公正じゃん? あ、もしかして君ら芸術点とかつけちゃうタイプ?」
奏夜という男はさも楽しげに言う。
わざと残虐な提案をしたというより、それが本当に公平なルールだと考えているかのようである。
ここに来て不良たちは本当にヤバいやつを相手にしていると気付く。
見えないナイフを首元に突きつけられているような緊張感が彼らを包み込んだ。
奏夜は肩を竦める。
「ま、どのみちこの場所はこーゆーのに適してないけどねー」
「適してないって、どういうことっすか」
「え? わからない? そうかぁ、じゃあちゃんと口で言ってあげないとだね」
突然、男は長髪男子の胸ぐらを掴む。
思いっきり手元に引き寄せ、額と額がくっつきそうなほどの至近距離に迫った。
そうして彼は、長髪少年の耳元で囁くように告げる。
「俺の目の届く所で堂々と警察沙汰になるようなことすんなよ、動きづらくなるだろうが」
「はい、すんませんでした奏夜さん」
少しばかりに声を震わせて、少年は奏夜に詫びる。
奏夜が手の力を緩めて長髪を解放すると、彼は一歩後ろに退いて一礼をした。
「帰るぞ」
長髪が一言呟くと、周りの連中全員が彼に従った。
誰も文句を言わないのは、一刻も早くヤバい人間から離れたいと考えているからだ。
奏夜は力の一切を誇示してはいない。
しかし喧嘩慣れした人間ほど、彼の危険性を敏感に嗅ぎ取るのである。
立場をわきまえ、あっさりと身を退いた彼ら不良グループは、ある意味で賢い選択をしたのだ。
「ほら、立ちなよ」
奏夜は璃玖の腕を引いて立ち上がらせた。
既に不良少年たちからは興味を失ったようで、去り行く彼らの姿には一瞥もくれない。
彼はバッグから棒キャンディを一つ取り出し、璃玖に渡した。
「はい、飴ちゃん。これで勘弁してやってよ。あとこれ連絡先。病院行くなら金はこっちで出すから」
「……だから警察には黙っとけって言うんですか」
「あはは、そゆことー。君意外と頭の回転早いね」
「どうも」
璃玖は奏夜から電話番号の書かれたメモを受け取り、そして……そのまま紙を細かく破って捨ててしまった。
「へぇ」
その思い切った行動に目を細め、ニヤリとする奏夜。
危険人物に対して『警察には言わないという約束は出来ない』とはっきり示す璃玖の胆力たるや。
「助けてくれたことには礼を言います。あんたがあいつらとどういう関係かは知らないけど、俺が言いたいことはただ一つ。今後一切、あいつらがあの子たちに酷いことをしないように伝えといてください」
自転車を起こしているソラたちを視線で示しながら、璃玖はそう頼んだ。
「あくまで他人のために動くんだね、君は」
奏夜はやれやれといった感じて頭を掻く。
さも面倒くさそうに気だるげな表情を浮かべ、彼はゆっくりと歩き始めた。
「まー、俺としては快適ヒモライフが維持できるなら何でもいーんだけど。ぶっちゃけあのガキどもがどうなろうと知ったこっちゃないしね」
璃玖に背を向け、公園の出口へと足を運ぶ奏夜だったが、ある程度距離が離れたところでゆっくりと振り向く。
悪意を内包したような歪な笑顔を璃玖に向け、告げた。
「だが君の頼みは聞いてあげるよ。ガキどもが悪さしないように、釘を刺しといてあげる。……ああ、君のその目、嫌いだな。君も嫌いだろう? 俺のことは」
「──ああ。もう絶対に関わりたくないですね」
「おーけー。大嫌いな君の頼みだからこそ、俺はちゃんと守るよ。それじゃ」
奏夜は中指を立てると再び璃玖に背を向け、そのまま公園の外へと歩いて行った。
争いの発端となったソラたちには目もくれず、路上駐車されていた黒塗りの高級車へ乗り込む。
間もなく走り去っていった車の行方をしばらく目で追ってから、璃玖はようやく樹の傍を離れた。
今になって、全身が物凄く痛い。
だが、これは勲章だ。
結果として、守りたかったものは守りきれたのだから。
女の子たちに、あれ以上の暴力が無くて良かった。
璃玖は満足げに口角を上げる。
そうして、ズボンに付着した土の汚れを手で払い、奏夜や不良たちとは別の方向の出口へ向かって歩き始めた。
「あ、あの!」
ソラは慌てて璃玖を呼び止める。
自分たちこそが当事者であるはずなのに、誰もが自分たちを無視して去ってしまうのはどうも腑に落ちなかった。
せめて、どうして助けてくれたのか、寝癖の彼には聞いておきたかったのである。
「あの、お兄さん。ありがとうございました。でも、どうして見ず知らずの自分達なんかを……」
ソラが尋ねると、璃玖はしれっと答えた。
「だって、困ってるやつがいたら助けるだろ。結局美味しい所はあのお兄さんに全部持ってかれたけどさ」
確かにあの場の収拾を付けたのは奏夜という額に傷のある男だ。
しかし璃玖が割って入らなければ、ソラたちが酷い目に遭っていたのは間違いない。
だから、ソラにとってのヒーローは、あの男でなく璃玖なのだ。
「でもお兄さん、自分たちのせいでそんなにボロボロに……あの、病院へに行きましょ。それから、警察にも」
「気にすんな。この程度の怪我なんざ、唾つけときゃ治る。お前らも気を付けて帰れよ」
「──待ってください! せめて、お名前だけでも……」
璃玖の服の裾を掴んで、名を尋ねるソラ。
璃玖は不良たち相手に一度名乗っていたはずだが、気が動転していたソラはそれを覚えていなかった。
そんなソラに璃玖は微笑み、こう告げた。
「ふっ……。名乗るほどのものでもねーよ」
そう言い残し、璃玖もまたソラたちの前から歩き去って行く。
ポツンと取り残されたソラは、去り行く璃玖の背中をじっと見つめた。
彼が公園の敷地から出て、やがて視えなくなるまでその姿を目に焼き付けていた。
そして。
いつまで経ってもその場を動こうとしないソラに、女子たちは声を掛けた。
「ねえソラくん、いつまで見てるの。もう行こうよぅ。じゃないとまた中学生たちが戻ってきちゃうかもぅ!」
「そーだよ。家に帰ろう?」
「……わかったよ」
ソラはやっと身体を動かし自転車へと跨った。
攻撃を受けたところがサドルに当たって痛くてしょうがなかったが、我慢して自転車を漕ぎ家路を急ぐ。
女子たちはあんなことがあった直後にも関わらず、まだソラの家まで付いてくる気のようで、ソラの後に続くように自転車を走らせていた。
そんな中、一人の女子が口を開く。
「てゆうかさ、最初に割って入った中学生、くっそダサくなかった?」
もう一人の女子も反応する。
「わかるー。なんかいきなり出てきたと思ったら小学生にもボコボコにされてさぁ。あとから来てくれたお兄さんの方がよっぽどカッコ良かったよぅ」
「きゃはは、だよね!」
庇ってもらった恩も忘れて、言いたい放題の女子二人。
確かに事を収めたのは奏夜の功績だが、それもこれも璃玖が身を挺して二人を守り、時間を稼いでくれたからこそうまく事が運んだのに。
しまいには彼の容姿や服装についても悪口を言い始める始末である。
当人が近くにいないことをいいことに、言いたい放題を続ける女子たちに、ソラは業を煮やす。
「……やめろ」
ソラは呟いた。
しかし彼の声が届いていなかったのか、女子二人は陰口を続けている。
ソラは急に自転車を停めると、二人へ振り返って叫んだ。
「いい加減黙れよ! あの人の文句を言うことは、おれが許さねーからな!」
「え、ソラくん……?」
「力で敵わない相手に、自分から飛び込んでいくなんて、なかなかできる事じゃねーだろうが! あぁ?」
「ちょ、ちょっと、怒らないで、よぅ」
ソラの怒りの矛先が自分達へ向けられたことで、女子たちはたじたじとなる。
お気にのイケメン男子からいきなり罵声を浴びせられたことにショックを受け、彼女らは泣き出してしまった。
「泣けば許してもらえると思ってんじゃねーよ、クソ女!」
「クソって、酷い!」
ソラの言い草に、遂に彼女らは自転車を反転させ、自分たちの家の方へと逃げて行ってしまった。
途端にソラの周りが静かになって、遠く公園の方から響く蝉の声だけが辺りを包む。
ようやく一人になったソラは、頭上に差し掛かった太陽を仰ぎ、呟いた。
「──おれもお兄さんみたいになりたい。力でもなく、言葉でもなく、心で戦えるような人に」
ソラは大きく頷くと、正面へ向き直り、再び自転車を漕ぎ出した。
心で戦える人間を目指すからには、まずは言葉遣いから変えてみよう。
怒りっぽいこの性格も、なんとかして直さなければ。
ソラは新たなる決意を胸に、真夏の日の下を一歩踏み出した。
***
さて、一方の璃玖はというと。
家に帰った瞬間、ボロボロになった姿を母親に見つかり、仰天されることに。
そのまま病院へ連れていかれたものの、本人は「階段から落ちた」としか言わず、真相を打ち明けることは遂に無かった。
警察沙汰にしたくない奏夜の意図を汲み取った、というわけではない。
実のところ、今の璃玖にとってはあの男との邂逅など、精神や価値観に大した影響も与えられない些末事なのである。
ここで彼の心理状況を覗いてみると、ことの真実が見えてくるはずだ────。
(ヒューっ! 人知れず女の子を助けちゃう、俺、かっけーーーー!)
つまるところ、璃玖は拗らせていたのだ。
中二病という奴を、だ。
何のメリットもないのに他人のために動けちゃう自分に酔いしれて、『女の子たちに惚れられちゃったかも♪』とありもしない現実を妄想して悦に浸っていたのである。
「さーて、この一件をヒーローノートにでも纏めておくかな!」
璃玖は勉強机の引き出しの裏から一冊の大学ノートを取り出し、今回の事件の詳細をメモし始めた。
璃玖の活躍をかなり誇張して書いたこのノートは、後に璃玖の黒歴史として焼却処分されることとなる。
「それにしても……あの茶髪のボーイッシュな女の子、可愛かったなぁ。将来は美人さんに育つんだろうなぁ」
大きく成長した美少女との恋物語なんかを夢想しつつ、璃玖はノートにペンを走らせるのだった。
***
これが、璃玖とソラの本当の馴れ初め話。
しかしながら、性別を勘違いしていたり、髪型や背格好が違っていたりで、あの時の出会いが自分たちの運命の始まりだったとはどちらも気付いていない。
何よりこの時期は璃玖もソラも彼ら史上最大級の『拗らせ期』。
思い出すたびに頭を抱えたくなるほどの恥ずかしさに襲われるため、公園での出来事は互いの昔話の片鱗にも表れてこないのだ。
よって互いに「あの時のあの人って……!」ともならないのである。
二人はこの過去を隠したままに結ばれ、人生を共に過ごし、結局生涯を通じて本当の馴れ初めを知らぬままであった。
そうしてこの日よりおよそ七十余年後、彼らは穏やかに人生の幕を閉じる。




