ありし日の二人
これは、璃々花がまだ璃玖であった頃。
それどころか、璃玖とソラが互いを認知して間もない頃の話だ。
当時の二人は橋戸家の廊下で出くわした時に軽く挨拶をしただけの関係で、まさかちょうど十年後に目の前にいる男の子が運命の相手だなんて夢にも思っていなかった。
この時の璃玖は、憧れの先輩・レミと仲良くなろうと必死だったのである。
時は五月一日、大型連休の初日。
璃玖はレミと二人でワオンモールの中にあるボルダリングジムに足を運んでいた。
ボルダリング(ボルダー)とは、クライミング競技の一種。
コンクリートの壁面には様々な形や色の石(ホールド)が取り付けられ、それらに指や足を掛けて壁を登っていくのだ。
各ホールドには番号が振られており、課題ごとに使える石が決まっている。
中には垂直より角度のきついコースもあって、登り切るにはそれなりの技術が必要だ。
「レミ先輩、靴履けました!」
「大丈夫? 痛くない? 少し締まってるくらいがちょうどいいサイズだからね」
「大丈夫です! 早速登りましょう!」
「あはは、張り切ってるねぇ璃玖くん。でもまずは準備運動からだよ」
璃玖が張り切るのも当然。
彼は一日だけとはいえレミと休日を共に過ごす権利を獲得し、浮かれまくっているのだ。
前日など目が冴えに冴えまくって眠れなかったほどだ。
今の璃玖は、はじめて橋戸の家に上がらせてもらった日の夜と同じくらいに興奮していた。
鼻を膨らませながら、璃玖は壁を指差して言う。
「先輩先輩! 何ですかあれ! なんか角度がえぐいですけど、反り立つ壁?」
「わぁ、結構なオーバーハングだね」
九十度以上の角度を持った壁を、一人の男性が両腕でぶら下がるようにしながら懸命に登っていく。
結構な高さまで行ったところで、彼はホールドを掴み損ねてマットに落下していった。
「すげー、ほぼ懸垂じゃないですか」
両手指先の力だけで全体重を支えながら登っていく姿に、璃玖はいたく感心した様子である。
一体どんな握力があればあんな登り方ができるのだろう、と男性の腕を見て見れば、確かに筋肉質だがゴリゴリのマッチョという感じではない。
レミに至ってはどちらかと言えば華奢寄りだ。
──脱ぐとスゴイ、のかもしれないが。
「レミ先輩って腕細いですよね。なのにどうして登れるんですか?」
「んー、たぶん璃玖くんが思ってるのと使う筋肉が違うんだよ。握りの強さも必要だけど、保持力とか、身体の捌き方とかの方が大事かな。見てて?」
ウォーミングアップを終えたレミは、『反り立つ壁』を含むコースの前に歩み出た。
そして、最初のホールドに手を掛けると、驚くほどするすると壁を登って行ってしまう。
周囲にいた人たちも、細身の女の子がいとも容易く課題を突破していくのを見て唖然としていた。
するとレミは、角度が最もきつい箇所でピタリと止まる。
両足をホールドに乗せ、右手の指先を小さな石に掛けた状態で、左腕をだらりと下げた。
「ほら、こんな感じで、指先には力を入れるけど腕とか方は脱力してるんだ」
「す、すごい」
「じゃ、とりあえず上まで行ってくる☆」
レミが壁を登っていく姿は、実に美しかった。
腕だけでぶら下がるなんて芸当こそ見せなかったが、三点支持をしっかり守り、余計な力は入れずに体全体で登っていくイメージ。
きっと、先ほどの男性の登り方の方が下手なのだ。
彼が腕だけでぶら下がる羽目になってしまったのはきっと、身体の使い方を誤って足の支持を失ったからだろう。
対してレミの登り方は、まさしくお手本であった。
彼女がゴールを示すホールドに両手を掛けた時、周りから拍手が沸き起こるのも、璃玖には自然な流れだと思えた。
ゴールから手を離したレミが、マットへ着地する。
「ふう。まあ、中級コースだとこんなもんかな」
「……待ってください先輩。これ中級なんですか」
「そだよー? ほら、奥の方見てみ。洞窟みたいになってるとこ」
「……天井にも石があるじゃないですか」
レミはにへら、と意地悪く笑った。
「スポーツクライミングの大会に出るなら、いずれあれもクリアして貰わないとだね♪」
期待してるよ、と言わんばかりにレミは璃玖の肩を叩く。
璃玖は顔を引き攣らせながら言った。
「大会って……俺、どちらかと言えば山岳競技の方が」
レミは笑い飛ばす。
「あははー、何言ってるの。可能性がある内は両方練習するに決まってるじゃないか! これ、部長命令ね。頑張ってくれたまえよ、璃玖くん☆」
「……くッ、逆らえない!」
アウトドア部が一刻も早く株分けされて、レジャー中心の部活に生まれ変わってくれることを、璃玖は密かに願った。
一方で、レミと一緒に練習できるのであれば厳しい環境でも良いか、そんな風に考える自分もどこかにいる璃玖なのだった。
────
──
この日、璃玖はレミが難しい課題に何度もチャレンジする姿を見て、本格的に恋に落ちることになる。
そして同時に、レミもまた、懸命に練習を重ねる璃玖の姿に思うところがあったらしい。
初心者コースの上位レベルに汗を流す璃玖を眺めていた彼女は、誰にも聞こえないような声でぽつりと呟いた。
「なんか、負けず嫌いなところ、拓人に似てるかも」
彼女は璃玖の背中に想い人の姿を重ね見る。
璃玖に失礼だと思いながらも、ひたむきなその姿勢に憧れの存在を想起せずにいられないレミなのだった。
「ハァ、もう……う、腕が限界っす……ハァ」
「璃玖くんお疲れー。最後惜しかったねぇ。指はかかってたんだけど」
「ハァ、俺、もっと鍛えますよ。レミ先輩に追い付けるくらいには、強く」
レミはくすりと微笑んだ。
「ふふっ、お姉さんはキミの成長に期待してるぞぉ?」
璃玖の泣きボクロの下あたりを、指の腹でぐりぐりと押す。
途端に真っ赤になる顔が可愛くて、レミは余計に彼の頬をいじめたくなった。
***
その日の夕方。
帰宅したレミは非常に上機嫌だった。
彼女はリビングのソファでくつろいでいたソラを半ば押し退けるように隣に腰掛け、彼に昼間のボルダリングジムの話をし始めた。
手の皮が擦り剝けるまで練習する璃玖の姿に感心しただとか、来週は山登りに行こうと誘われただとか。
それはもう嬉しそうに、璃玖との一日のことを話しまくっていた。
「『毎週一緒に遊ぶなんて、恋人みたいだね☆』ってからかったらさぁ、耳まで真っ赤になっちゃって、本当に可愛いんだぁ。私思わずキュンときちゃった!」
「あーそう」
あまりにもレミの惚気が過ぎるものだから、ソラは思わず溜息を漏らす。
彼はタブレットの漫画アプリを閉じると、気だるそうに尋ねた。
「あのさ、同級生のなんとかって人のことは、もう良いの?」
「ん? なんとかって?」
「名前なんか知らないよ。前によく話してた男の人。好きだったんじゃないの?」
言っている意味が分からないのか、レミは眉根を寄せる。
頭に疑問符を浮かべていそうな彼女に、ソラは追撃を掛けた。
「だから、同級生のカレのことは諦めて、これからは今日の人に乗り換えるのかなって」
「の、の、乗り換えるって」
ソラの言わんとしていることが伝わったらしく、レミは頬を紅潮させて慌てた素振りを見せた。
声のボリュームが一段階大きくなる。
力の制御も聞かなくなったのか、彼女は隣に座っているソラの肩を平手で何度も小突きながら、恥ずかしそうに叫んだ。
「あのねぇ。璃玖くんはあくまで弟みたいなもんだからっ! つまりあんたと同レベルだからっ!」
「痛い、痛いってばか!」
「──ってゆーか拓人のことだって別に好きじゃないし! あいつは親友であってそれ以上ではないから!」
「あ痛ッ!」
最後に一発肩にパンチを繰り出してから、レミは立ち上がり、ソファを離れた。
大股で台所へ向かい、冷蔵庫の麦茶を取り出しながら、彼女は「暑い暑い」と顔を平手で扇ぐ。
その態度はもう、『ソラの言うことは図星です』と顔に書いてあるのと同じだった。
ソラはニヤニヤと笑いながら、姉に叩かれた肩を擦る。
(……本当は好きなくせに。ほんと、素直じゃないなぁ)
ソラは記憶の中にある璃玖の顔を思い出していた。
数日前に、一度だけ会ったことがある。
レミに勉強をみてもらうために橋戸家に来ていた、優しそうな雰囲気の少年。
彼もきっとレミに気があるみたいで、姉を見つめる彼の視線からは特別な感情を伺い知れた。
それと同時に、ソラは、彼を一目見た時「この人は絶対に自分と気が合う」と感じたのを覚えている。
直感というのか、パズルのピースが綺麗にはまったような気持ちになったのだ。
──いつか姉と彼が付き合ったなら、彼らはきっと良い恋人になれるだろう。
そうすればいずれは彼が自分の兄になるかもしれない。
(ふふ、だったら今のうちに仲良くなっておいた方が良いよね。今度あの人が来た時に、ぼくも勉強会にまぜてもらおーっと)
ソラは近い未来へ向けて、布石を打っておくことに決めたのだった。
このたった一つの思い付きが、生涯を共に過ごす相手との馴れ初めに繋がるとは、この時のソラには知る由もない。
この日のちょうど十年後、四月三十日の大安吉日に璃々花とソラは入籍を果たす。




