夢見る茉莉 その2
茉莉は目を覚ます。
吊り下げ照明の見慣れない天井だ。
真っ白なシーツは少し汗ばみ湿っている。
枕のすぐ脇には調光式のランプ。
刺繍の入った大きなカーテンが壁の一面にあり、どことなく高級感が漂っていた。
茉莉は思い出す。
ここは、香川のどこかにあるホテルの一室だ。
誘われるがままに着いてきただけだから、具体的な場所まではわからない。
ただ、求められて、そのまま応えてしまった。
身体の芯に残る熱のようなものを感じて、茉莉は呟く。
「あつい」
すると左隣のベッドの上で何者かが起き上がる気配がした。
ローブ姿のその人物はのそのそと布団の上を這って移動し、隣のベッドに横たわる茉莉の顔を覗き込む。
「ごめん茉莉ねぇ。起こしちゃった?」
「いろは……いまなんじ」
「十時を過ぎたところかな。お腹空いてる?」
「大丈夫。でも喉は乾いた」
「ん。わかった、お水持ってくるね」
いろはは茉莉の頭を軽く撫でると、冷蔵庫の方へ歩いていく。
茉莉も上体を起こそうとして、しかし、はだけた布団から何も身に付けていない自分の胸が露出しているのに気付いた。
全てを見られた後では今更だというのに、慌てて腕を交差して上半身を隠す。
きょろきょろと付近に自分の衣服を探してみるも、見当たらない。
脱いだのは、バスルームの前だったか。
徐々に記憶が鮮明になっていく感覚がした。
「お水と、あと、とりあえずこれ羽織っとき」
「ありがとう」
いろはは茉莉にローブを手渡し、彼女のベッドに腰を下ろす。
ローブに腕を通した茉莉は眼鏡を掛け、今度は水のなみなみ入ったグラスを受け取って、そのまま一気に喉へ流し込んだ。
汗だとか涙だとかで失った水分が、毛細血管の隅々まで補給されていく。
「ぷはっ、生き返るわー」
「えっと大声出しよったけん、疲れ果ててしもたんやろな」
「言うなよ。……思い出したら恥ずかしいぢゃん」
茉莉はいろはのことを男の子として特別に意識したことはなかった。
初めて出会ったあの時に【バグリー】であると聞かされた時からずっと、身体が男の子なだけの女の子だと思って接してきたのだ。
それがまさか今になって男女の仲になるなんて。
いろはも同じことを考えているのだろう。
その表情は笑顔だが、どこか固いままだった。
茉莉はいろはに尋ねる。
「ねえ、する前に聞くのも野暮だと思ったから言わなかったんだけどさ。どうして急に雄に目覚めちゃったの?」
純粋に疑問だったのだ。
男の身体になってからも自分の性嗜好は捻じ曲げず、実際、同性愛の気がある男性とばかり交際していたはずのいろは。
女相手に恋愛感情を抱くこともなければ、生理的にも女の裸に興奮することすらない……という茉莉の認識は誤りだったのか。
いろはは後ろ髪を弄りながら、気まずそうに答えた。
「自分でもようわからんのよ。なんでか、今日の茉莉ねぇを見てたら自然と『したいな~』って思えて来て。変な話やけど、してる最中のわたしは完全に男だった、気がするんだ。……いやほんと、頭ん中ごちゃごちゃや。なんでこんな気持ちになったんやろ」
「ふふ、目ギラギラだったしね」
茉莉は行為中のいろはを思い出し、口に手を当て笑った。
「なんかこう、胸の奥の方から急に沸き立ってきたんよ。この人のぬくもりを感じたい、手放したくない、そんな欲求というか、衝動みたいな」
心ではなく、身体の方に全てを突き動かされた感覚。
人間としての理性でなく、本能に近いものだったのかもしれない。
「だから、ごめん。わたし、勝手に盛り上がって、それで茉莉ねぇに甘えてしもて」
「ばか。きにしなくていいっての」
茉莉は首を横に振る。
「でも茉莉ねぇは初めてで」
「そんなこと言ったら、あんただって女相手は初めてでしょうが」
そう言って茉莉はいろはのおでこを小突いた。
いろはが気にしているほど茉莉は重く考えてはいないのだ。
彼女の方こそ、男に飢えていた節はある。
今日はたまたま二人とも、溜まっていた欲求が弾けただけ。
もっとも、弾けた原因については、茉莉には心当たりがあった。
「つーかさ、きっかけは、やっぱりあれじゃない? ソラくんと樫野の結婚式。なんだか色んな意味で心にクルものがあったから」
「うん。それは、あると思う……けど」
心の性と体の性のギャップに苦しんでいたいろはにとって、ソラたちの結婚は一種の模範解答のようなものだった。
心の性が同じであろうと、体の性がどう変化しようと、愛し合うことはできる。
互いに想い合う気持ちさえあれば、壁は乗り越えることができるのだ。
加えて言えば、直後に彼氏に浮気されていた影響も手伝い、いろはは男性不信になりかけていた。
色々な鬱憤が重なった結果、茉莉に気持ちをぶつけてしまったのである。
一方の茉莉もまた、鬱憤を溜め込んでいた。
応援していた人たちの恋の結末を見届けたことで、『今度は自分も──』と願望が強くなっていた。
幸せな恋愛がしたい、だのに自身の恋はうまくいかない。
欲求と現実のギャップ。
いろはに求められたとき、これでようやく満たされる、と考えてしまったのである。
お互いがお互いを捌け口にした。
これはそういう話だ。
いろはは溜息を吐く。
「はぁ、わたしは最低やな。よりにもよって、大好きな茉莉ねぇに欲求をぶつけて」
「んなこと言ったら私だって最低だよ。初めてがいろはみたいなイケメンなら良いかなー、って軽く考えちゃったんだ」
「でも、もう普通の友達には戻れへんよね」
「……どうなんだろう」
茉莉はいろはを見つめながら考える。
相変わらず綺麗な顔だ。
相変わらず美しい瞳だ。
実は心が女の子です──それはそうだろう。
これ以上に女の子らしい表情を、茉莉は他に知らない。
そんないろはから求められて、どうだったか。
……全く、悪い気分ではないのだ。
むしろ腑に落ちるというか、胸のつかえが取れる感じだ。
「ぶっちゃけさ、いろは的に私はどうなの? 普通の友達じゃなきゃ、だめ?」
「どういうこと?」
「──恋愛対象には、ならない?」
核心をついた。
いろはの背すじが伸びる。
緊張から、その綺麗な顔がいっそう強張った。
いろははしばし考えて、やがて大きく二度、深呼吸をする。
姿勢を正して、茉莉に告げた。
「……正直なところ、自分自身が女の人と付き合うなんて想像できない。想像はできないんやけど、茉莉ねぇとだったら乗り越えていけそう、って確信はある。変かな」
「変じゃないよ」
茉莉は首の動きで否定する。
彼女もまた『女性同士』で付き合っていくイメージは沸かないが、いろはとならあるいは、と、そう思うのだ。
「私ね、いろはと初めて会ったときから、あんたに特別な何かを感じてた。有名人だから、って意味じゃないよ。通じ合える何かがあるように感じたんだ」
二人の出会いは九年も前のこと。
【バグリー】として悩みを抱えていたいろはが、同じ境遇のソラとコンタクトを取ったのが始まりだった。
その年のクリスマスイブに落ち合ったいろはとソラを、こっそり尾行していたのが茉莉である。
知り合いの知り合いという薄い縁、それも犯罪紛いの行為から繋がった間柄。
友情が生まれる余地など、普通は無い。
だが。
「わたしも、同じや。茉莉ねぇに特別な何かを感じてた。──あの時、わたしらの後をつけてたのがもしも璃玖にぃだけやったら、きっと一緒に遊ぼうなんて誘ってない。茉莉ねぇがいたからこそ、仲良くなりたいって気持ちが強くなったんかと思う」
特別感を抱いていたのはいろはも同様であった。
あたかも運命に導かれるように、二人は親友になり、そして今に至る。
「ね。いろは」
「うん」
「私たち、付き合ってみない? いろはの複雑な事情も心理もわかってる。だけどもしかしたら、付き合ううちにちゃんとした恋になるかもしれないじゃん? 少なくとも、私はいろはとそういう関係になりたいと思ってる」
これが、茉莉の本音。
大好きな親友と身体を重ねたからといって、すぐに恋になるわけじゃない。
だけど、いろはに恋をしたいとは心から思う。
恋をしたいから、まずは形から入ろうというのだ。
いろはも応える。
「わたしも、茉莉ねぇと恋をしたい。ちゃんと、異性として好きになりたい。やけん──ボクと、付き合ってください。お願いします」
良いよ、と茉莉は返事をして、彼女は布団から這い出てくる。
ベッドに腰掛けるいろはへ近づく茉莉。
すると、横から伸びてきた男らしい腕に導かれ、彼女はいろはの胸の中に抱き留められた。
柔らかで暖かく、とくとくと鼓動が聞こえる胸板。
茉莉はたまらず顔を上気させた。
「いろは、キスしよぉ?」
蕩けた表情で誘う。
返事をするのも惜しかったのか、いろはから唇を奪われるのは一瞬だった。
二人は互いの想いを口内で絡め合い、何度も姿勢を変えて、欲望を貪った。
跳ね除けられた布団、皺になり、染みをつくるシーツ。
重なるように横たわった二人の唇は、まだ透明な糸で繋がれている。
茉莉は眼鏡を外し、サイドテーブルに置くと、なんだかおかしくなって不意に笑みをこぼした。
「ふふ、なんかさっきから順番がバラバラだね」
「うん」
思わずいろはも照れ笑い。
そのままもう一度キスをして、顔を見合わせたまま、また笑う。
互いの熱い吐息に気持ちも熱を帯びてくる。
「ねえいろは。もっかい……出来るよね。すごく元気」
「もう、恥ずかしいけんほないに見んといてや」
「ふふっ、ごめんごめん。それじゃ────」
茉莉は調光パネルに手を伸ばし、部屋を暗くした。




