凛々しく咲くは瑠璃の花
第五章の直後から最終章の間、三月前半のお話です。
三月七日、ソラが男に戻ったその日。
銀河山の上で改めて絆を結び直した璃玖とソラは、樫野家まで帰ってきた。
小降りとはいえ山の頂上で長時間雨に晒されていたため、二人の身体は冷え切ってしまっている。
「はぁー、すげー濡れたな。ははっソラお前、水が滴ってるぞ」
「雨降るなんて思ってなかったんだもん。シャワー借りて良い?」
「一緒に浴びるか?」
「う……裸見られるのちょっと恥ずかしい」
「男同士なのに」
「今の姿だと、本来の自分を曝け出すみたいでさ」
ソラにとっては女の子の身体という仮初の姿の方が見せるのに抵抗はなかったらしい。
今裸になれば『生まれたままの姿』という表現により近い状態になるからだ。
と、まあそんな具合で、シャワーは交代で浴びることになった。
シャワー後、二人はベッドに横になる。
山頂で雨に打たれ、別れ話からのプロポーズ……平日の昼過ぎにも関わらず、二人は精神的に疲れ切ってしまっていた。
先に眠りに落ちてしまった璃玖の隣で、ソラも微睡みながら彼の顔を眺める。
優しくも凛々しいその顔を目に焼き付け、ソラも瞼を閉じた。
……何度か黒の魔女に話しかけられた気がして、ソラは薄く目を開ける。
璃玖の寝顔がいつもより少し可愛く見え、なんだかたまらなく愛おしくなって。
恋人の身体の柔らかさに、ソラは再び夢の世界へ落ちて行った。
────
──
「う、うわぁぁあああああ!?」
昼寝から目を覚ました璃玖は、自身の身体に起きた異常を即座に知覚し、飛び起きた。
何が起こったのか気付いてはいるものの理解が追いつかない、というよくわからない精神状態で、次に自分がどうすべきなのか、その判断にまで結びつかない。
結果、璃玖はベッドの上でフリーズしたまま、自分の心臓の拍音だけを聞いていた。
「ん、どうしたの」
隣にいたソラが、モゾモゾと身じろぎする。
あ、まずい──璃玖は咄嗟にタオルケットを被り、ソラに背を向けて丸くなった。
冷静に考えれば、どのみちバレる事実を伏せたところでどうしようもないのだが、この時の璃玖は全くと言って良いほど頭が働いていなかったのだ。
「……璃玖? 何してるの?」
「けほ、けほ、い゛やぁ、風邪ひい゛ちゃって、今日は布団から出られそうにない゛というか」
精一杯のガラガラ声を作る璃玖だったが、
「いや誰ッ!?」
ソラの耳は誤魔化せない。
耳慣れた恋人のものとはオクターブの違う声に、ソラはすぐさま反応を見せた。
彼は身体を起こして四つん這いになると、隣で丸くなっている璃玖のタオルケットを引っ剥がした。
途端、露わになるのは全体的に柔らかさを印象づけるような身体のシルエット。
脇腹から腰にかけてのくびれと、丸みのある腰骨からのヒップライン。
腕を引いて仰向けにしてみれば、シャツの下から主張してくる豊かな双丘が璃玖に何が起きたかを示唆していた。
ソラは震える指でそれを指し、顎をガクガクと揺らしながら言った。
「お、お、おおお、おっぱ、おッ」
「ばか、言葉失ってんじゃねーか」
「あ、り、璃玖だ、璃玖だよね?」
「そうだよ」
やれやれ、と璃玖は起き上がった。
まだ、心臓はバクバクと脈打っている。
自分の体を見下ろせば、仰向けの時よりもはっきりと、胸の膨らみがわかる。
恐る恐る身体の各部を触ってみるけれど、案の定、下半身にあったものがすっかり消失していた。
──【性転換現象】。
それが璃玖にも起きてしまったのだ。
「……鏡、見たいな」
「う、うん。下に行こう」
ここに来てようやく自身に起きた事態を受け止め始めた璃玖。
事を飲み込むにつれて、反比例するようにどんどんと気持ちは沈んでいってしまう。
気持ちの重さからか、あるいは性転換とはこういうものなのか、立ち上がるだけでドンと疲労が肩にのしかかってくる。
脚を一歩前に進めるだけで、いつもの倍は体力を消耗していく。
一階の洗面台まで降りて行き、初めて自分の容姿を目視すした。
ああ、思ったよりも自分だな──璃玖は淡白な感想を抱く。
璃玖はソラに寄りかかるようにへなへなと腰を下ろし、そして、そのまま動けなくなってしまった。
ソラが呼んだ救急車が到着するまで、へたり込んだまま天井をぼうと見つめていた。
***
五日が経った。
あれから病院に搬送された璃玖は、同行したソラと共に精密検査を受けることになった。
性転換直後の璃玖は急激な筋力低下やホルモンバランスの乱れによって満足に動くこともできない状態であったが、元々のトレーニング習慣のおかげか、割と早くに立ち直ることができた。
定期的な通院をすることに決まったものの、入院期間としては僅か二日で済んだのである。
むしろ、再度性転換という前代未聞な事例であったソラの方が、より詳しく検査され、たっぷり五日も病院に拘束されたのであった。
ソラは退院後、一旦自宅に戻り、すぐに璃玖の家に向かった。
ずっと離れ離れで寂しかったし、何より璃玖の身体が心配だったからだ。
「あら、ソラくん。すっかり男前に戻って。璃玖ならリビングよ」
「はい。お邪魔しま──」
樫野家に脚を踏み入れたソラは、リビングでとんでもないものを目にする。
そこにあったのは姿見を前にしてスカートの裾を摘み上げ、くるりとターンを決めて嬉しそうに微笑む、かつてのカレシ、現在のカノジョの姿だった。
彼女はソラに気が付くと、にこりと微笑んで言った。
「あ、ソラ久しぶり。どう? この服私に似合ってるかな?」
ソラはしばらく絶句し、口をあんぐりと開けていた。
不思議そうに目をぱちくりさせる璃玖は、どこをどう取っても完全に女の子に順応しているのだ。
「──なんか、ズルい!」
ソラは膨れる。
再会の第一声は、妬みの発露であった。
────
──
半刻ほど後、璃玖とソラは揃って近所の公園を散歩していた。
今は三月の半ば。
ここ数日の暖かさから、ソメイヨシノの蕾が既に膨らみ始めている。
きっと来週にはちらほらと桜が舞う光景が見られることだろう。
「少し早いけどお花見だね、璃玖」
「どちらかというと蕾見だけど」
「ふふ。そうだね。……にしても驚いたよ。璃玖ってばすっかり女の子になっちゃってるんだもん。一人称も『私』だし」
ソラはくるりとターンし、後ろ向きに歩きながら、璃玖の顔を正面から見つめた。
相変わらず涙ボクロのある左頬。
癖のあるウェーブの髪。
身長だって、さして変わらない。
だが、今の璃玖を見て男だと感じる者はいないだろう。
それくらい、彼女は既に洗練された美麗さを伴っていた。
「ソラが私の代わりにいっぱい苦労してくれたから、覚悟が早めに決まったってだけだよ」
言いながら、璃玖は足を止めた。
ソメイヨシノの垂れ枝が目に留まる。
膨らみかけの蕾や新芽を覗き込む。
蕾にちょいと触れて、刺激を加えてみた。
当然、そんなものでは急に花が開くはずもないが、できればもう少し早くに咲いて欲しいものである。
来週の今頃には、璃玖は新幹線の中なのだ。
ソラと共に地元にいられる時間も多くは残されていない。
「花と言えば、さ」
「ん?」
「私の新しい名前は、『璃々花』っていうんだ。璃玖の璃に、花。今、改名の申請を出しているところ」
改名の話は初耳であり、ソラは目を丸くした。
自分の時は、女になったからといって名前まで変えるという発想はなかった。
「私が生まれる前にさ、うちの親、もしも女の子だったらって二つ名前を用意してくれてたらしいんだ。宝石みたいに永遠の輝きをもって凛々しく咲く美しい花。だから、璃々花」
「璃玖の璃って、宝石って意味だったんだ」
ソラにとっても、璃玖は宝石のような存在だ。
色褪せない輝きと、意思の固さを持った、大切な宝物。
そのイメージは変わらないから、新しい名前を聞いても違和感なく馴染む感じがするソラである。
ただし。
「なぁんか、残念だな。璃玖とソラ、対になってる名前っぽくて、ちょっと運命を感じてたのに」
「確かに、そうかもね」
かつてレミに招かれて行った橋戸の家で、璃玖は初めてソラと対面した瞬間に、悟った。
そして名前を聞いて、確信したのだ。
この子とは絶対に気が合う、と。
思った通り、二人は一番の仲良しになり、恋人になり、将来を誓い合った。
絆の一端を、名前が繋いでくれたのは多少あるのかもしれない。
「でもさ、私がどんな名前になろうと、どんな姿になろうと、紡いできた絆は絶対に消えないから。私はこれからも、ソラの隣にいる。どこにいたって、心で繋がってる」
璃玖はそう告げると、ソラに右の掌を差し出した。
ソラは左の掌でそれを包むと、自然と指を絡め、横並びで手を繋ぐ。
いつも璃玖がいた右の位置に、今はソラがいる。
立場は入れ替わった。
だけど、璃玖の言う通り、絆は消えてなくなったりはしないのだ。
「ふっ、璃玖はクサい台詞が好きだねぇ」
「うっせー、ばか」
「あ、ちょっと男に戻った」
「……まだ、慣れてないのよ」
「うーん、そこまでいくとやりすぎかもね」
二人は笑い合いながら、やがて互いに空を見上げた。
春霞と黄砂の混じる、曖昧なグラデーション。
美しくもぼやけた景色に、しかしソラははっきりとした思いを抱く。
──これからは、ぼくが璃々花を守るんだ。
璃玖に貰った強さを、彼女に繋いでいくために。
ソラの心の中の誓いは、春の息吹に乗って、やがて二人を優しく包み込んだ。




