文化祭の日に その3
「ぷははは、それにしてもさっきの樫野の顔、ウケたわー!」
「怒らせちゃいましたかね、センパイのこと」
「まあ、勝手にヤキモチ妬いているだけだよ。気にしない気にしない」
本館から体育館へと伸びる渡り廊下を歩きながら、茉莉は飲み物片手に大笑いをしていた。
しかし、傍らで手にしたカップのストローを啜るソラは浮かない顔だ。
(ヤキモチ、か)
璃玖の誘いを断って、茉莉を選んだ──だから嫌な顔をされても仕方がないのはソラも承知していた。
だけどもそれは、璃玖の中にソラに対する明確な好意があって初めて成立する嫉妬だ。
やはり、彼はソラを恋愛対象として見ているのか。
『樫野璃玖は橋戸ソラに心惹かれていることを自覚している』とはいまいち信憑性が疑わしい魔女の言葉だが、少なくとも璃玖の心境についてはジョークでなく真実なのかもしれない。
ソラはなんだかお腹が痛くなってきた。
女の子の日がそろそろだということも思い出して、余計に憂鬱になる。
「すみません、茉莉センパイ。少しお手洗いに行って良いですか」
「うん。おっけー。飲み物持っといてあげるよ」
茉莉にカップを預け、渡り廊下の中途にある女子トイレに入るソラ。
性転換直後は女子トイレに入ることは非常に躊躇われる心持ちだったが、四ヶ月経過した今では女性としての振る舞いに慣れ、特別に思わなくなっていた。
のだが。
「きゃぁぁぁあ!」
「え、うわぁ!?」
トイレに入った瞬間、そこにいた女子生徒に叫ばれてしまった。
「え、声……女の子? ご、ごめんなさい、わたし勘違いして!」
「う、うん。大丈夫」
トイレの入り口付近で、ペコペコと頭を下げ合う。
そうして女の子が外に出て行く姿を見送る際、鏡に映った自身の姿を見てソラは気が付いた。
今のソラは、男装中だったのである。
背丈は女子の平均をはるかに超えているソラだから、男子が入ってきたと勘違いして叫ばれても不思議ではない。
(……ま、勘違いというか、本当に男の子なわけだし)
自分の性別は一体どうなっているんだ、といっそう落ち込んでしまうソラなのであった。
***
ソラは茉莉と再び合流して、体育館のバルコニーまでやってきた。
六鹿高校の体育館は一階が格技場、二階が講堂兼球技場になっている。
体育館裏手の外階段は格技場から球技場に上がる際に用いられるものだ。
普段は外階段近辺に人気は無く、『秘密の話をするならここ』と言われるほどだが、文化祭の今日に限っては結構な人の往来があった。
故に今一番落ち着ける場所が、体育館二階表部分のバルコニーだったのである。
僅かに通行人が来るものの、学校全体の喧騒も相まって会話を聞かれることはなさそうだった。
コンクリート塀に寄りかかりながら、ソラは茉莉に話を切り出した。
「こんな時に相談なんて、折角のお祭り気分が白けちゃうかもですけど」
「モーヘンタイの無問題よ。夏以来、ぶっちゃけトークをあまりしてこなかったしね」
ありがとうと言って、ソラは話し始めた。
女として生きようと頑張ったけど、結局は中途半端なままであること。
心が誰かを好きになろうとしても、身体がブレーキをかけてしまうこと。
さらに、もう一度性転換する可能性が出てきたということ。
その事実を告げたのが、夢に現れた黒の魔女なる存在であること。
「魔女……聞いたことがあるよ。テレビでオカルト扱いされてたけど」
「あの専門家の言ってることは本当です。ぼくが見たのが幻でなければ、ですけど」
魔女の真偽はともかく、自分のこれからに迷いがあるのはソラにとって間違いなく現実だ。
璃玖に手を引かれて迷い道から抜けられるかも、という時に降りかかってきた再性転換の問題。
この世界の神様は、どうあってもソラを迷子にさせたいらしい。
「男に戻るなんて、望んでいたはずのことなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう」
「ソラくん……」
ソラの迷いの原因は、第三者からすると簡単なことだ。
ソラは璃玖のことが好きなのだ。
好きな相手が元々同性だから、欲求をぶつけられず、元の性別に戻ることに抵抗を覚えるのである。
もちろん茉莉にもソラの迷いの根本は簡単に読み解けた。
彼女としては複雑な心境であろう。
「私さ、ソラくんに告白したじゃん?」
「え、あ、はい……ごめんなさい、曖昧な態度をとって」
「私はもうフラれてるつもりだったから別に良いんだけどね」
曖昧だとソラは言うが、茉莉はそうは思わない。
彼女が告白する前から、ソラの璃玖に対する好意はあからさまだった。
その好意が信頼から恋慕へ変化していっていることも、肌感覚でわかっていた。
「でさ、その時に私言ったよね、『男の子に戻るのを諦めないで』って」
「はい。茉莉先輩は男の子としてのぼくが好きだって」
「うん。でもあれ、撤回させて」
「へ?」
茉莉は手に残っていた飲み物を飲み干すと、ソラへ向き直り、爽やかに微笑んでみせた。
「私はあの時、いくらソラくんが女の子になっても根っこにある男の子の部分は変わらないと思ってた。それが足枷になって、いずれソラくんを苦しめるんだって、わかってた」
「はい、その通りです」
「でもソラくんは予想以上に女の子だったんだよね。男の子の部分と必死に向き合いながらも、女の子らしくいようって努力してた」
男としての精神が足を引っ張るという予言は正しかった。
だが、ソラの頑張りは予想を超えて、今では男性相手に恋だってしようとしている。
ソラの意思を尊重するのであれば、『男の子』に拘るような過去の発言は取り消すべきだ──茉莉はそう考えた。
「今の私は、ソラくんの選んだ道こそを応援したいって思ってるよ。だから……なんていうの、全力で楽しんじゃえば良いんじゃないかな。女の子の自分も、男の子の自分も」
茉莉の言葉は、かつて璃玖が茉莉に語った想いとよく似ていた。
結局、ソラを想う二人がたどり着いた結論は同じなのだ。
「全力で、楽しむ」
バルコニーより階下を眺めながら、ソラは茉莉の言葉を繰り返す。
まるで、言い聞かせるように。
魂に刷り込むように。
「そ。楽しんじゃお。女の子としての生活も、女の子としての恋愛も。もしも男の子に戻ることがあるとしたら、その時に後悔したくないじゃん?」
にへら、と笑う茉莉に、ソラの胸は少し跳ねた。
眩しくて、暖かくて、手を伸ばしたくなる感覚。
ソラは実際にそうしかけて……ふと、茉莉の姿に黒髪癖毛の彼の姿を重ねてしまって、手を止めた。
茉莉と二人でいる時ですら、ソラの心の真ん中には彼が居座っている。
こんな浮ついた気持ちで茉莉と向き合っていることに、罪悪感を覚える。
茉莉はそんなソラの心を見透かしたように、続けた。
「私のことを考えるのはさ、男の子に戻れたその時で良いよ。それまでに大切なものを得たのなら、私はそっちを応援したい。……ちなみに、私は男の子同士の恋愛は全然アリだと思ってるから! 全力で推せるから!」
そう言って、親指を立てる茉莉。
ソラは困り顔で頬を掻いた。
「なんかそれだと、ぼく、ズルくないですか」
茉莉の気持ちに、甘えてしまっているようで。
「良いんだよ。青春って、そういうもんだろ?」
彼女は白い歯を見せた。
ただ、少しだけ寂しそうに目を細めると、小さく呟く。
「……でもね、少しだけ我儘というか、悪足掻きだけはして良いかな」
「へ?」
茉莉はソラへと一歩踏み込む。
そのままソラの顎を指でくいと持ち上げ、そして──。
「んッ──!?」
ソラの息が止まる。
薄く閉じられた瞼から覗く、黒曜石の瞳に目を奪われて。
鼻先に触れる黒髪のくすぐったさと、間近から香る甘い匂いに肺を埋め尽くされて。
呼吸をするのも忘れてしまうほどの、心臓の高鳴りに脳を焼かれた。
彼女の唇の柔らかさがどこまでも気持ち良く、ソラは思わず目を瞑る。
一瞬の時を心に刻み、まもなく、茉莉はソラの顔から離れた。
「……これで、仮予約ね」
「かりよやく」
「そ。もしもソラくんが女の子の恋愛に負けちゃった時は、私が君を貰うから。今のは、予約の証」
茉莉は、普段ソラがする癖のように、自分の唇にそっと人差し指を当てて、悪戯に微笑んだ。
その瞬間、ソラの胸の奥が、きゅっとなった。
「茉莉先輩。ぼくは」
何かを言いかけたソラの台詞を、上書きするように茉莉は言う。
「ふあぁ~、いやぁしかし、なんか青春してるって気がしますなぁ。それもこんなイケメン相手に、何してくれちゃってんだ私って感じ」
「あ、あの」
「ね。そろそろ次の出し物見に行かない? ほら、ちょうど何かのライブが始まりそうだし」
「先輩……」
体育館の室内から、誰かがマイクで何事かを叫んでいた。
それに呼応する大勢の歓声も漏れ聞こえてくる。
茉莉は伸びをしながらソラの背中側、体育館の入口方面へと歩き出す。
そして、キョトンとしているソラの横を通って、すれ違いざまに耳打ちした。
意地の悪い、追加攻撃を。
「そうそう、私ね、樫野のことも好きだから。両方に唾つけてんの。悪いやつでしょ?」
呆気に取られるソラ。
思考が真っ白になり、何も言葉が出てこない。
すたすたと歩いていってしまう茉莉の後ろ姿を暫し見送ってから、ようやく絞り出した一言は、身の回りの女性たちに対する恨み言だった。
「……なんでこう、ぼくの周りにいる女の人は、男心を弄んでくるのかな」
脳裏に栗色の長い髪の身内を思い描きながら、ソラは茉莉の後を追う。
その足取りは心なしか、今朝よりもほんの少し軽くなっているようだった。
ちなみに文化祭二日目の終わり頃になってようやく璃玖と少しだけ一緒の時間を過ごしたらしい。




