Scene2-4 彼から彼への、
ソラの覚悟の詰まった言葉。
大好きな人への別れの言葉。
しかし璃玖は首を縦に振るわけにはいかない。
ソラの一方的で突然すぎる宣言に、「はいわかりました」なんて答えられるはずがない。
「あのさ。お前、それを聞いた俺がなんて言うのかわかってるだろ」
「わかってますよ。だけどぼくは、きちんとお別れしたいんです」
ソラは璃玖に別れる気がないことなど理解しているのだろう。
性別が戻った程度で璃玖の心は動じないとわかっていたからこそ、自分を悪く言ったのだ。
「そもそも別れる必要があるのかよ。いまどき同性カップルなんて珍しくないだろ」
「そうかもしれないけど……でも、『普通』じゃない!」
「普通って、何だよ」
璃玖の握った拳に力が入る。
ソラの一言が悔しくて、ギリギリと奥歯が音を立てた。
普通じゃなければ、異常だとでも言うのか。
好きな人を好きでい続けるというのは普通の感情ではないのか。
……そうじゃない。
ソラの言いたいことは、そうじゃないと、璃玖も本当はわかっている。
元々が同性愛者でない以上、男同士で付き合う行為がイレギュラーであることは事実なのだ。
何故ならば。
「じゃあ、璃玖はぼくが最初から男のままなら好きになってくれた? 恋人になってくれたの?」
「それは」
図星を突かれた。
今の璃玖にとっては一番触れて欲しくないポイントを的確に狙われた気分だった。
「確かに今の璃玖はぼくのことを想ってくれてるよ。それはわかってる。だけど」
ソラは目元を指の腹で拭い、そして璃玖の目の奥の方を睨みつけるようにして、震える声で問いかける。
「──璃玖がぼくを好きになったのは、レミに似てたからなんでしょ?」
「……ッ」
璃玖には心臓の奥を握られたように感じられた。
実際、ソラの表情にレミの面影を感じたところからこの恋は始まっている。
それは璃玖も自覚していたし、ソラも口にしないだけで何となく気付いていたところだった。
もちろん、レミへの想いは既に璃玖の中で整理がつき、過去のものとなっている。
しかし、レミに対して未練があるかどうかは今は関係ない。
ソラとの恋模様のきっかけがそこにある以上、彼の言う『普通じゃない』を否定できないのだ。
仮に男の子同士のままだったなら、二人は決して結ばれなかったという根拠だから。
「確かに、最初の頃はお前の中に過去の先輩を見てた。否定はしないよ。……だけど違うんだ。きっかけがどうとか、普通がどうとかは、今の俺たちが恋人でいられるかには結びつかない! 俺は──」
璃玖は、大きく息を吸って、言った。
「俺はお前と恋人でいたいよ。ここまで来たらもう男だとか女だとか関係ない。俺にとってお前は、橋戸ソラという個人こそが、大事な存在なんだ……! 今だってほら、こんなに、どうしようもないくらいにお前が好きだ。じゃなきゃ、別れ話がこんなに苦しいはずがない。こんなに辛いはずがない。そうだろ……!」
「でもッ」
「でもじゃない!! お前だって本当は離れるのが嫌なんだろ!? 一緒にいたいんだろ! 見たことないくらいの悲しい顔してるのが何よりの証拠だ!」
「ち、が……ぼ、ぼくはッ、ぼくは璃玖、とは────」
ソラは徐々に足の力を失い、その場にしゃがみ込む。
そして自らの頭を両手で鷲掴みにして、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き毟った。
言葉にならない呻き声をあげて、ソラは冷たい雨の中、いくつもの熱い雫を瞼から落としていた。
璃玖はそんなソラの隣、濡れたコンクリートの床に腰を下ろす。
羽織っていた上着を二人の頭上に掲げて即席の雨避けにすると、隣で泣きじゃくる泣き虫に優しく呼びかけた。
「言っとくけどな。俺ははじめから中途半端な気持ちで付き合ってないよ。あの日、この場所でお前を受け入れた時には結論が出てたんだ。『男に戻ったソラを好きでいられるか』、その問いにイエスと言い切れる、あの時にはもう確信してた」
ソラは、しばらく何も言葉を発しなかった。
潤んだ瞳で璃玖の目をじっと見つめること八秒。
ソラはやがて少し悲しげに笑うと、鼻から大きく息を吐いた。
「……だよなぁ。璃玖はそういう人なんだよ」
ソラは鼻を啜り上げて目元を腕で拭い、そして璃玖ではなく正面の城跡の方を眺めながら呟いた。
「だからこそ、璃玖を縛りたくない。普通に恋愛して、結婚して、子供を作って、家庭を築いて……そんな璃玖を見ていたい。だけど、ぼくとはもう子供は作れないから……」
ソラが付き合い始めの時期に子供を欲しがっていた理由の一端が、璃玖にも見えた気がした。
男に戻る可能性を知っていたからこそ、焦っていたのだ、と。
「二人でだって家族と呼べる形にはなれるよ。実際そういう夫婦で、幸せな家庭だって沢山──」
「だめだよ」
璃玖の言葉に被せるように、ソラは言った。
「選べる未来を選ばないことは、そうなることしか出来なかったのとは違うでしょ。ぼくなんかを選んでもきっといつか後悔する。いつか璃玖の目の前に素敵な女の人が現れたとしたら……それでもし、その人と良い感じになったとしても、ぼくがいる限り、璃玖は絶対に浮気なんてしないでしょ? それは、ぼくが璃玖の未来を奪った事と同じになるんだよ! それが、嫌だ。考えるだけでつらいんだよ……」
そもそも論で言えば、そこまで璃玖のことを想うのならばソラは彼と交際をすべきではなかった。
ただ、恋はソラを盲目にさせた。
璃玖との間に子供ができる、そんなワンチャンスに賭けたくなったのだ。
しかし、ソラの『心の性』が行為を拒絶する。
いつしかソラは璃玖との関係の、綺麗な終わらせ方のみを考えるようになった────。
「きっと、バグってるんだよ、ぼくたちは。性転換現象がきっかけで、心がさ。璃玖だって【性転換現象】が無ければぼくのことを恋愛対象にすることもなかったんでしょ。……ぼくもだよ! 女になんてならなければ、ぼくたちは今でも気の合う先輩後輩で終わってた! 璃玖のことを好きになんて……ならなかった」
璃玖はソラの言葉を最後まで静かに聞いていた。
やがて彼が言葉を途切れさせた時、璃玖はようやく口を開く。
「確かに、超常現象なんて起こらなければ、そうなってたのかもしれない。でもさ、現実として俺たちは恋をしたわけじゃん。今さらリセットしたって何になるんだよ。お互いの心を殺して、それで掴んだ幸せに価値はあるのか? ……俺はさ、お前が『俺との関係が嫌になった』と言うなら受け入れたよ。『男に戻れたから、女の子と恋愛したい』って言われてもちゃんと受け入れた。でも、そうじゃない。お互いがお互いを好きなままなんだ。自分の気持ちを裏切ってまで手に入れる幸せなんか、俺は望んでない」
「璃玖」
「それとも、言わないだけで俺のことが嫌いになったのか?」
俯き気味だったソラははっとして顔を上げた。
「ちがッ……あっ」
咄嗟に違うと言いかけて、ソラは口をつぐむ。
心の底から別れを願うならば、今の問いかけには嘘でも『嫌い』だと答えるべきだったのだ。
あるいは、『付き合いたくない』でも良かった。
ソラの中にある感情は、璃玖と交際することへの拒否感ではなく、璃玖を想うが故の遠慮に他ならない。
あるかもわからない将来の選択肢のために、今、望まない未来をソラ自身が選ぼうとしていたのだ。
「俺は今、『未来はこうでありたい』と思って話をしてる。確かにお前の考えはわかるよ。俺だって、お前が彼女作って、結婚して、お互いの子供を遊ばせたりして……そんな未来もアリだとは思う。でも俺とお前の二人で未来を歩みたいって気持ちのほうが何倍も強いんだよ。ソラ、お前はどうなんだ。お前の『こうありたい』を、本当の気持ちを教えてくれ……!」
「ぼくは」
ソラは唇を震わせながら、ぎゅっと拳を握りしめた。
迷う。
迷う。
ひたすらに、迷った。
「璃玖、ぼ、ぼくは」
心からの願いをぶつけても良いのだろうか。
それが、今の自分に許されるのか。
わからなくて、ただ迷う。
そんなソラを見かねてか、璃玖は言った。
「大丈夫だよ、ソラ。お前がどんな返事しようと、俺の選択は揺るがない。俺はただ、お前の気持ちが知りたいだけなんだ。ほら、俺が頑固で一途だって知ってるだろ? だからプレッシャーに思う必要はないさ」
「璃玖……ぼくはぼくはねッ……!」
顔をくしゃくしゃに歪め、ソラは璃玖の腕にしがみつく。
思いの丈をいっぱいに込めて、彼は叫んだ。
「いっしょに゛、いだい! ずっと、一緒に! 当たり前だよ! 大好きなんだもん、璃玖のことがさぁ!!」
ソラは大声を上げて咽び泣いた。
璃玖の胸に額を擦り付けるようにして、本当は離れたくないと、体じゅうで訴える。
璃玖は雨避けにしていた上着を手放し、ソラの身体を引き寄せて、強く抱きしめた。
濡れて乱れた栗色の髪を、小さく震えるその肩にぎゅっと力を込めて、懸命に体温を伝える。
璃玖はもう、ソラの顔は見れなかった。
否、自分の顔をソラに見せられなかった。
情けなく泣きじゃくるその顔を見せてしまったら、きっとソラは余計に苦しいだろうから。
一生懸命に優しい声を作ると、璃玖は囁くように告げた。
「俺も、大好きだよ」
「う゛んッ」
「ずっと一緒にいたいよ、ソラ」
「うん゛、ぼくも、いっしょに……いだい、です……!」
膝立ちの姿勢で、お互いの身体を強く抱きしめた。
春の風に吹かれて璃玖の上着が地面に落ちる。
二人はそれでも離れることはなく、むしろ一層力を込めて、互いを引き寄せ合う。
雨はもう、小降りになっていた。
「勝手なことばかり言って、ごめんね。ぼく、璃玖の気持ちを無視して、傷つけて……」
少しだけ密着していた身体を浮かせて、ソラは璃玖を見上げた。
璃玖はそんな彼の髪の毛をくしゃくしゃにして、笑う。
「はは。本当に、勝手なやつだよお前は。でも、本音を言ってくれてありがとう。──あ、そうだ」
璃玖は肩提げのカバンから小さな紙袋を取り出した。
リボンで綺麗に飾り付けられた、だけど少し湿ってしまった包装を、ソラに手渡す。
これは何、と目線で聞いてくるソラに、璃玖は小さく頷いて返事をした。
ソラは黙って袋のシールを破り、中身を取り出す。
「水色のブレスレット……可愛い……これを、ぼくに?」
「ああ。ちょっと不格好かもしれないけど、頑張って作った」
「え、作った!?」
驚くソラに、璃玖は自身のシャツの袖を捲る。
そこにはソラに手渡したのと同じデザイン同じ色のブレスレットがあった。
四葉のクローバーのチャームが揺れる、空色のスエード紐。
『ずっと一緒にいたい』という璃玖の願いが込められた、ハンドメイドのブレスレット。
「こっちがオリジナルで、教わりながら俺が作ったのがソラの分。一応その、空色に惹かれて」
「ぼくの、色、だね。嬉しい……ありがとう、璃玖」
ソラはよいしょと勢いをつけて立ち上がると、早速ブレスレットに腕を通し、頭上に掲げて色々な角度からそれを眺め始める。
灰色の雲を背景に仰ぎ見るブレスレットは、まるで雲間が割れて現れた本物の青空のようだった。
璃玖も遅れて立ちあがる。
そして、軽く両頬を叩いてソラに正対した。
真剣そのものの顔つきで、真っ直ぐに最愛の彼を見つめてその名を呼んだ。
「あのさ、ソラ」
「なぁに、璃玖」
「今日はお前に、伝えたいことがあったんだ」
ごくり、とソラの喉が上下した。
璃玖はひと呼吸だけ置いて、ソラに告げる。
「俺と────結婚してくれませんか」
「……!」
ソラははっと息を呑んだ。
これまで以上に力強い感情の奔流が、内から内から湧き出てくるように感じた。
強すぎる思いは、まもなくソラの両の瞳から熱を持って溢れ出てくる。
ソラは尋ねた。
「本気、なの」
璃玖は間髪を入れずに答える。
「本気だよ」
「ぼく、男だよ」
「知ってる」
「心が、じゃなくて、ほんとに男なんだよ?」
「わかってるさ」
「結婚しても……子供もできないんだよ?」
ソラは左目から一粒だけ涙を落とした。
そこにはソラの悲しみが含まれている気がして、璃玖は少し考えた。
もしかすると、ソラの中で子供というのは家族の象徴のようなものなのではないだろうか。
だから同性同士の付き合いが未来の選択肢を奪うなんて発想になるのだ。
「二人だけでも立派な家族にはなれるさ。それに」
「それに?」
璃玖は気まずそうに頬を掻く。
今からする発言が、気休めにもならない夢物語だとわかっているからだ。
彼は呟いた。
「……また、どっちかが性転換する可能性もあるし」
数十万人に一人という超常現象の重ねがけなど、確率は数千億分の一、分母が地球人口を軽く超えてしまう。
だが、ゼロではない。
璃玖の気持ちが汲み取れたのか、あるいは単に馬鹿馬鹿しかったのか、ソラはくすりと微笑んだ。
「どれだけ低確率の話をしてるの。可笑しいなぁ」
「笑うなよ。一応、真面目に話してるつもりなんだからさ」
口を尖らせながらそう呟くと、璃玖は手を差し出し、首を垂れた。
「もう一度言う。ソラ、俺と結婚してください」
「璃玖」
ソラが璃玖の名を呼んで、それで、声は止んだ。
ぼつぼつと展望台に打ち付ける雨粒の音と、風の音、それ以外の一切を失った世界は、自分の中の脈打つ鼓動を強く意識させる。
十数秒。
ソラの返事を待っていた璃玖だが、不安のあまり、遂に顔を上げてしまった。
彼の視界に映るのは、柔和な表情で璃玖を見つめるソラの姿だった。
「そっか。そうだよね」
ソラの、自分にだけ聞こえるくらいの小さな囁き。
それと同時に軽く頷いたソラは、璃玖に向かって一歩を踏み出した。
「ソラ」
ソラが来てくれる。
そう思った璃玖がその名前を口にする。
しかしソラは、差し出された璃玖の手の一切をスルーして、さらにもう一歩踏み込んできた。
そうして浮かべたのは、上目遣いで小悪魔なスマイル。
それは女の子だったソラが、璃玖をからかう時に見せるいつもの表情。
「り、くぅ。ちなみに同性婚はまだ法制化されてないんだけど、そのへんはどう思うの?」
どこか愉しそうな調子で彼は問う。
璃玖は即座に返答した。
「パートナーの登録制度とか」
「それじゃあなんか微妙だよねー。うちの県にその制度あるか知らないし」
実際、璃玖たちの住む自治体にはパートナーシップ登録制度は整備されていない。
とりあえずの関係を結ぼうと思っても、移住するしか選択肢が無いのである。
「──あーあ、同性婚が認められるまですっごく待たされる気がするなー」
「ぐッ……」
璃玖は言葉に詰まってしまう。
結婚したいという想いはあっても、じゃあ具体的にどうすべきかを思考の外に置いてしまっていたツケである。
ところがソラは、璃玖の顔を覗き込むようにしてニヤニヤ顔を近づけて来る。
悪戯な猫のような瞳で、璃玖のブラウンの瞳を射抜いて来る。
以前とは違って顔つきは美青年のそれだが、璃玖をどぎまぎさせるのに完璧すぎる、魅力的な表情だった。
近づいて来るソラの顔から璃玖が目を離せないでいると、突然、ソラが跳ねるように抱きついてきた。
肩の上から腕を回された璃玖は、思うように身動きが取れなくなる。
それで、先程差し出していた手をそのままソラの腰へとそっと回して抱き留めた。
耳元で、ソラが言う。
「いいよ。いくらでも待つから。ちゃんと籍を入れられるようになるまで、ぼくは待ってるから」
「ソラ、それって」
ソラは璃玖の額に自分の額をくっつけて、優しい表情を見せた。
至近距離で絡み合う視線の中には、もう、辛い気持ちや悲しい気持ち、迷いはない。
「璃玖、結婚しよう。これからも末永く、一緒にいよう」
ああ、報われた。
届かないと思っていた物が、今まさに目の前に降りてきたようだ。
──璃玖の視界が急にぼやけた。
嬉しくて、嬉しすぎて、顔の熱が両目に水溜りを作っていく。
「ありがとう、ソラ」
雨の音は未だ続いている。
けれど、遠くの雲が割れて光差すのを二人は視界の端に捉える。
天使の梯子。
灰色の空から真っ直ぐに、幾筋も伸びていく光の道。
しとしとと降り注ぐライスシャワーと、天使のヴェールに祝福されながら、二人は幸せなキスをした。




