♪4.何も分かってない
何も分かってない……。
「あたしはただ、ルームメイトだから美佐緒先輩と仲良くしとかないとなって思ってるだけなのー。別にルームメイトじゃなかったら、あんな冷たい人……」
入学してもうすぐ3ヶ月。今夜もあたしはお姉ちゃんの部屋で口を尖らせている。
「夏音、そういうのが顔に出ちゃってるんじゃないの? どんなに取り入れようとしても、夏音は顔に出やすいからね」
それでもだいぶこの寮生活にも慣れ、219号室に乱入する回数は減ってきている。服飾科の仲良いクラスメイトも増えたし、自室で過ごす時間を減らすために入部した手芸部の友達も結構できたからだ。
むっちりした太腿に勝手に頭を預けると、お姉ちゃんは苦笑しながらあたしの頭を撫でてくれた。友達といる時はもちろん楽しいが、お姉ちゃんと過ごしている時間がやっぱり1番落ち着く。
「だってさ、だってさぁ、小言ばっかり言うんだよぉ? 今日は宿題ないの? とか、中間テストの結果はどうだったの? とかさぁ。宿題ももちろんやってるけどさ、服飾科は課題があるじゃん? 提出期限までに頑張ろーと思って11時くらいまでやってたら『勉強もしないでまた縫い物?』とか言うんだよーぉ? 美佐緒先輩は普通科だから知らないんでしょうけど、こっちは宿題と課題で大変なんだっつーのーぉ!」
バタバタとベッドで足をバタつかせるあたしの背中を「分かってる分かってる」と言いながらお姉ちゃんがぽんぽん叩く。
「分かってない、分かってなーいっ。お姉ちゃんも普通科じゃん。大変なんだよ? 忙しいんだよ、服飾科はー。もう小言ばっか言われるのヤダから、今日はクラスメイトの部屋で仕上げてきたけどさぁ……」
「うーん、あたしは普通科だけど、あいつがそれだからさ。夏音が大変なの分かってるつもりだけどなぁ……」
お姉ちゃんの視線が示す『あいつ』と『それ』がルームメイトのデスクで止まる。獅子倉茉莉花のデスクは、成りかけのレザークラフトでごった返していた。工具と部品を交互に手に取り、細い指で器用に仕上げられていく。
シャカシャカした音楽をヘッドフォンから漏らしながらも相葉姉妹の視線に気付いた獅子倉茉莉花が不思議そうに顔を上げた。話しかけられたと思ったのだろう。ヘッドフォンの片耳を外して問いかけてきた。
「なに? 聞こえなかった」
「ううん。なんでもない」
お姉ちゃんが赤毛のポニーテールを左右に揺らしながら首を振る。いぶかしげな獅子倉茉莉花の視線がこっちを捉える。あたしが「ぺー」と小さく舌を出すと、「感じわりー」と言ってまたヘッドフォンを耳にはめ直した。
お姉ちゃんにほっぺたを軽くつままれたことで、『べー』がバレてたか、と知る。それでもお姉ちゃんは咎めることはなかった。初めの1ヶ月くらいは明らかに面白くないという顔で邪魔してきた獅子倉茉莉花も、ここしばらくは特に間に割って入ることはない。
それはそれでムカつく。腹の中では、『夜はぼくのだから、今だけは貸してやるよ、ふふん』とかなんとか思ってるみたいでムカつくーっ。
「夏音は頑張ってるよ。ただ、美佐緒先輩にそんなに取り入れようとしなくてもいいんじゃない? 誰にだって合う・合わないはあるし、どうしたって仲良くなれない人もいるわよ。それと、別に向こうだって夏音のことが嫌いで言ってるわけじゃないと思うよ? あんまり意識しないほうが……」
「そんなん分かってるよぉ。嫌いだったら話しかけてもこないような性格だもん、あの人。でもあたし、宿題しろとか勉強しろとか片付けろとか、ママにもあんま言われたことないのにさぁ……とにかくいちいちうるさいんだもーん」
部屋を散らかすほどうちが広くなかっただけなので、『片付けろ』は1度も言われてない気がする。
「受験生だからカリカリしてるのもあるのかもね。美佐緒先輩ってあたしは話したことないけど、明らか秀才って感じだし、いいとこの大学目指してるんじゃないの?」
「自己紹介した時に聞いたよ。弁護士になりたいから法学部目指してるんだってさ。
「あー、なるほどね。似合うかも」
美佐緒先輩が銀縁メガネをキラリと光らせてパリパリのスーツを着こなす姿が目に浮かぶ。納得するお姉ちゃんも同じ想像をしていたに違いない。
自室に戻れば、今夜もまた憂欝に襲われる。長いため息を吐いてごろんと仰向けになった。形が良くお手頃サイズのお姉ちゃんの胸。その向こうに小さくあくびをしている顔があった。
三姉妹おそろいの、ゆでたまごのようなおでこ。でもお姉ちゃんは芯の強さがにじみ出た大きなネコ目。あたしは生まれたての仔犬のようなくりくりの垂れ目。鼻すじと唇の形も似ているが、お姉ちゃんは薄く引き締まった唇、あたしはどちらかといえば少しぽってりした唇をしている。
小さい頃はもっと似ていた気がする。あたしは小学生低学年から全く変わっていないが、1つしか変わらないお姉ちゃんはどんどん大人っぽくなっていく……。
どんどん離れてしまっている気がする。取り残されている気がする……。
あたしが成長しているのは、この邪魔な胸だけ……。
「夏音? そんなに嫌なの? もうすぐ夏休みだから……」
いつの間にか涙目を覗き込まれていた。嫌だけど仕方ない。部屋には帰らなくてはならない。それは仕方ない。嫌々ついでに芋づる式に嫌々が沸いてくる……。
「そうだね、帰るよ……」
もそもそ起き上がって髪をあらかた整える。心配そうに首を傾げるお姉ちゃん。引き留めたいが2割、引き留められないが8割ってとこで申し訳ない顔をしている。
「夏音、帰るの?」
立ち上がるあたしの姿が視野に入ったのであろう獅子倉茉莉花が問いかけてきた。ゴツいヘッドフォンをデスクに置いてあたしをじっと見ている。
「帰るけど? なに?」
どうせお姉ちゃんを独り占めできるから早く帰って欲しいんでしょっ。ムスッとして挑発的に問い返すと、獅子倉茉莉花は一度肩を窄めて苦笑いを浮かべた。
「あげるよ。出来たてほやほや」
獅子倉茉莉花はにこにこしながらあたしの手を取った。ぽんっと手のひらに乗せられたのは、先ほど製作中であったレザークラフトのひとつ。ピンク色の合皮に黒糸のステッチ、四縫には銀色のスタッズが施されたICケースだった。
かわいい。センスもいい。丁寧に仕上げられたそれは、あたしが利用しているフリマサイトで販売すればきっと数千円でも購入者がいるだろう。
でも……。
「いらない、こんなの」
「へ?」
目を丸くする獅子倉茉莉花に投げつける。しばらく困惑したように固まっていたが、「そう」と言って拾い上げた。
獅子倉茉莉花はそのまま黙ってデスクに戻っていった。広げた工具や切れ端を1つの紙袋にしまい、その中にICケースも一緒に入れた。
だって、だって、悔しいじゃない……。仲良くもないやつにもらっちゃったら、仲良くしなきゃいけない気がするじゃない。許してあげなきゃいけない気がするじゃない。そしたら、お姉ちゃんを独占してるやつに降伏するみたいで……。
「夏音っ!」
怒鳴るお姉ちゃんの声を聞いたのは初めてだったかもしれない……。振り上げられた右手に反射的に左頬をかばう。ギュッと目をつぶって衝撃に構えた。
でも、その右手が振り下ろされることはなかった。おそるおそる目を開けると、お姉ちゃんは悔しそうに唇を噛んでいた。開いていた右手をグーにして引っ込め、スッとあたしに背を向け低く言った。
「謝りなさい」
「……だって……」
「いいから、茉莉花に謝りなさいっ」
背を向けていても震えているのが分かる。それは堪えている怒りなのか悔しさなのか、悲しみなのか……チビスケのあたしには分からない……。
「いいよ、汐音。ぼくが嫌われてるのは分かってるからさ」
黙ったままのあたしに嫌味なく、わざと軽い口調で言っているのが伝わってくる。デスクチェアーの背もたれを軋ませながら「んー」と場にそぐわない伸びをした。
「茉莉花は優しすぎるのよっ。夏音、早く謝りなさいっ」
「いいじゃん、もう。汐音だって最初の頃はぼくへの扱い雑だったじゃん。そっくりだよ。姉妹だなぁ、やっぱり」
軽く笑いとばす獅子倉茉莉花の発現に思い当たる節があったのか、お姉ちゃんはバツが悪そうに「む、蒸し返さないでよ」と吃った。
あたしの知らない1年間のお姉ちゃんを知っている獅子倉茉莉花がいる。あたしには見せないお姉ちゃんの姿を知っている獅子倉茉莉花がいる。お姉ちゃんがお姉ちゃんでない時のお姉ちゃんを知っている獅子倉茉莉花がいる……。
悔しい……。
「謝らないなら出ていきなさい。茉莉花に謝るまで、ここには入れさせないからね」