♪12.眼下に広がる海
眼下に広がる海。こんなシチュエーションじゃなければ、あたしもきっと瑠衣先輩のように……。
「どうしたの? 船、見えない? 夏音ちゃんて目ぇ悪かったっけ?」
窓から視線を戻した瑠衣先輩が首を傾げている。向かいの席の2人も黙ったまま。あたしには航跡までくっきり見えている。でも、感動のスイーツもロケーションも、今のあたしにはもうどうでもいい……。
「2人も見てみなよぉ。せっかくの景色なのにぃ。どうしたの? 急にみんな黙りだしてぇ」
木製のスプーンを握りしめたまま、瑠衣先輩はキョロキョロとあたしたちを見比べている。天然で空気が読めないなりに、必死に顔色を伺っているのが分かる。瑠衣先輩は何も悪くない。それなのに、困らせてしまい罪悪感が広がる。
あたしはなるべく平然を装い、話題を変えた。
「瑠衣先輩、よそ見してたらぜんざいこぼしちゃいますよ? ちゃんとお口を前に……」
「そうだったそうだった。今日は服汚すわけには……あっ!」
言ってる矢先にボテッと音がする。スプーンに乗せられていた一口分のあんこが、おろし立てのワンピースに浸みていく。慌ててスプーンを置こうとして、今度は器ごとひっくり返した。
「あーっ! 私の大事な服がぁ……」
「先輩、とりあえずじっとしてっ。あたしが拭きますからっ」
「ごめぇん、夏音ちゃん……」
あたしはリュックからポケットティッシュを取り出し、服にすり込まないようにそっとあんこを摘まみ上げる。「大丈夫ですか?」と布巾を持ってきてくれた店員さんに御礼を言って布巾を押し当てた。
踏んだり蹴ったり……。でも仕方ない。瑠衣先輩に着せた時点で、いずれはこうなることは覚悟していた。ただ、そのタイミングが最悪だっただけで……。
「大丈夫、帰って食器用洗剤で洗ってから洗濯しますから。多分シミにはなりませんよ」
「ありがとう。……でも、ごめんね?」
「いいんですよぉ。瑠衣先輩のお世話には慣れましたから。あははっ」
「うーん、でもぉ……」
しょんぼりと俯く瑠衣先輩。開き直ったあたしの方がけろっとしている。笑ってみせたからか、2人の視線を感じた。
「先輩、ぼくの見立てで良ければ下のフロアで服買ってきますよ。そのままじゃ恥ずかしいでしょ?」
「いいのいいの、マリッカちゃん。私は全然気にしないタイプだから」
「大丈夫ッスよ。もっと似合う服探してきますから期待しててください」
そう言って、バッグを片手に立ち上がる獅子倉茉莉花。引き留めようと瑠衣先輩がテーブル超しに腕を掴む。勢いで倒れかかったグラスをあたしがキャッチした。
「瑠衣先輩っ、お願いだから外で溢さないでくださいよっ。いいじゃないですか、マリバッカ先輩が買ってきてくれるって言うんだから。良い機会だから新しい服買って帰りましょ?」
「新しい服なんていらないよっ。私は大事なワンピ着て帰る!」
駄々っ子のような瑠衣先輩が首を振る。獅子倉茉莉花は腕を掴まれたまま立ち尽くしている。お姉ちゃんは黙ってテーブル上の皿を重ねだした。
少しの間の後、根負けしたのか獅子倉茉莉花はソファに座り直した。ホッとした瑠衣先輩が「じゃあ行きますかぁ」と財布を取り出した。
さっきのしょぼくれはどこへやらの威勢良さで、「支払いは任せて!」とあたしたちを店外へ追い出す。遠目に見えた財布の中には、そのボロボロの外見からは想像もできない金額が入っていた。ふとした時に、そういえばお嬢様なんだった、と思い出させる。
3人でごちそうさまでしたをして、エレベーターを待つ。上階から見て回ろうかと提案したのは瑠衣先輩。「はーい」と返事したのはあたしと獅子倉茉莉花だけ。お姉ちゃんはただ、黙ってフロアガイドを眺めていた。
初めに付いたのは7階、カジュアルファッションフロア。あたし好みのガーリーな服から、いかにも獅子倉茉莉花が好みそうなロック系やマニッシュな服がズラリと並んでいる。
欲しい! 着てみたい! 作ってみたい! わくわくで足が速まる。あたしは吸い込まれるようにティーンズコーナーへ突入した。
「夏音ちゃーん、満足したら戻っておいでねー」
「はーぁい!」
すでに遠くに聞こえる瑠衣先輩に返事をして、あたしは更に足を進める。どうやら瑠衣先輩は本当にファッションに興味がないらしい。エレベーター前のベンチに腰かけて手を振っていた。
疳高い店員さんの声とジャカジャカ騒がしい音楽。そのどちらも耳に入らない程、あたしは服選びに集中していた。次々とハンガーを手に取る。
複雑な型を作ってみたい。刺繍もできるようになりたい。オリジナルロゴも作ってみたい。手に取った服を観察し、想像を膨らませる。
「それ、似合いそうじゃん。買ってあげようか?」
ハスキーボイスが耳に届く。振り向くと獅子倉茉莉花のどアップがあった。反射的に遠退く。並ばれると、鴨ちゃんよりも背が高いことに気付いた。
「いらないっ。ってゆーか、どうせ着れないし」
「そう? ちょうど良さそうだけどな」
「あたしのことはいいから、自分の好きな方見に行ったら? あたしは1人で見たいし。ってゆーか、あっち行って」
「ははっ。ひどっ」
苦笑いを浮かべる獅子倉茉莉花に、しっしと手首を揺らす。それでも、背を向けるあたしについてきているのが分かる。チラ見をしたが、お姉ちゃんの姿はない。
「なんでついてくんのよっ。自分だって服見たいって言ってたんだから行けばいいでしょっ」
「いいじゃんかよ、たまには。ぼくだって同じ服飾科として、最近の流行りとか知っておきたいしさ。それに、夏音の好みも知りたい」
「は? 今日だって他の女の子たちと買い物行ってたくせに。流行りなんてとっくに知ってんじゃないの? ってゆーか、あたしの好みなんて知ってどうするわけ?」
「流行りと個人の好みとは別じゃん。色んな店回ったり、色んな子の好みを調査して勉強しないとね」
そう言う獅子倉茉莉花の目は真剣だった。あたしが手にしている服を、横取りし、「さっきの方が似合うな」と呟き、勝手にラックに戻していく。
その後も、あたしが無視しようがお構いなしについてきた。小うるさい音楽に負けじと「これは?」と、わざわざあたしの視線の高さに合わせて提示してくる。顔が近い。
どうせちんちくりんのあたしに似合う服なんてない。胸だって入らない。あたしはただ、ヒントが欲しいだけ。想像力をかき立ててくれる材料が欲しいだけ……。
……けど……。
「あんたはいいよね、何でも似合うから」
「うん? そんなことないぞ? ぼくだって似合わないファッションはたくさんある」
「そんなことないっ。背だって高いし手足だって長い。顔面偏差値だって高い。ウィッグかぶせて黙らせ溶けば、どんな服でも着こなせそうじゃないっ」
「えっと……褒めてる?」
八つ当たりのつもりが、ニヤけ顔を目前に失敗を悟る。「違うしっ」と背を向けると、ケタケタ笑う声が聞こえた。
「なんなのよ、もうっ! どっか行ってって言ってるでしょっ!」
「つくづく思うよ、汐音にそっくりだなって」
「あーそうですかっ。残念ながら、あんたを嫌いってとこはお姉ちゃんと真逆だけどねっ」
言って確信する。やっぱりあたし、お姉ちゃんが獅子倉茉莉花のことが好きなんだと気付いていた。それも、ただの『好き』だけじゃない『好き』だってことに……。
「汐音もね……」
獅子倉茉莉花のトーンが変わる。
「最初はぼくのこと大嫌いだったよ。事あるごとに噛みついてきてさ。でも、ぼくは汐音のそんなとこも含めて好きだったんだよ」
「……ドMなわけ? バカなわけ? お姉ちゃんに嫌われてるの知ってて好きって、ただのバカでしょ」
「うーん、まぁそうかもね……。でもさ、姉妹だから、いつか夏音もぼくのこと好きになってくれるかなって思ってる」
悪態つこうとしたが、獅子倉茉莉花の優しい微笑がそれを飲み込ませた。相変わらずジャカジャカ喧しい店内で、少しだけ時が止まった気がした。
「汐音はさ、いつも夏音のことを自慢してるよ。自分と違って器用だし、末っ子なのに用量はいいし、人のことを気にかけられる優しい子だって」
「……そんなことないもん。お姉ちゃんの方がいいとこいっぱいあるもん。だからあんただって……」
「でもさ、すごく心配もしてたんだ。夏音は人の顔色を気にしすぎるところがあるって。昔っから、自分がどうにかしなきゃって頑張りすぎて疲れちゃうとこがあるんだ、ってね」
「……そんなこと……」
美佐緒先輩と瑠衣先輩の顔が過ぎる。心の内を全部話していなくても、お姉ちゃんにはお見通しなんだ。お姉ちゃんには適わないな、って思った。
「恋人の妹だから大事なんじゃなくて、夏音はぼくにとって大事な後輩だよ。だけど、恋人が大事にしてるからもっと大事に思ってる。どんなに生意気言われてもね」
さらっと明かした真実。やっぱり、さほどの衝撃は感じなかった。校内の噂でも耳にしていたし。認めたくなかった告白が、あたしの中心を落ちていく……。
「それでも、あたしはあんたを好きになれないっ。いくら大好きなお姉ちゃんの大事な人だったとしても。あんたにお姉ちゃんはあげないんだからねっ」
獅子倉茉莉花の眼前に、ビシッと人差し指を突きつける。キマった! ……と思っていたら、やつはお腹を抱えて爆笑しだした。
「分かった分かった。じゃあぼくも、汐音は君にはあげない、って言わなきゃね」
「な、なんで笑うのっ? あんたとあたしはライバルだって言ってんの!」
「だってさ、かわいいじゃん。お姉ちゃん思いなんだな、って。ぼくにもこんな妹がいたら、めちゃめちゃかわいがるんだろうなぁ」
どうせこいつには、ぷんぷんしてる小学生にしか見えていないんだろう。こいつのこういう余裕ぶってるとこが1番嫌いだ。悔しさで顔が紅潮していくのが分かる。
「照れるなって。大丈夫、ぼくは汐音一筋だからさ」
馴れ馴れしくぽんっと頭に乗ってきた獅子倉茉莉花の手。耳元で囁くように言われて鳥肌が立つ。いちいち顔が近い。
「はぁっ? どこまでおめでたいの、あんた。誰にでもこういうことしてるの知ってるんだからねっ。お姉ちゃんのこと、大事に思ってるんなら、他の子にちょっかい出すのやめてよね! お姉ちゃんをからかわないで!」
レザーブレスレットごとギュッと手首を掴む。睨み上げると、獅子倉茉莉花は一瞬真顔になった。通りかかった店員さんが何事かと立ち止まる。
「夏音はさ」
真顔のまま、獅子倉茉莉花が低く言う。
「人を好きになったことないでしょ」
「あるもん。バカにしないで?」
「汐音とか家族以外でだよ。家族以上に大事な人、いる?」
あたしが沈黙している間、長い睨めっこが続いた。獅子倉茉莉花はじっと返答を待っていたようだったが、あたしが口を開きかけたところで表情を緩めた。
「夏音にとって、汐音以上に大好きな人ができたら分かるよ、きっとね。家族以外にも強い『繋がり』で結ばれている存在がいるんだってことを」
「……偉そうに言わないで。いつかお姉ちゃんだって、あんたの素行に愛想つかせるわよ」
「うん、確かに絶対ってことはない。それこそ家族じゃないから、いつか切れる縁かもしれない。でもさ、ぼくは汐音を裏切らない。汐音もぼくを裏切らない。これだけは絶対だよ」
「絶対なんて有り得ない」
あたしがキッパリ言うと、獅子倉茉莉花は「分かってないなぁ」と苦笑した。握っていたままの手首を振りほどき、レザーブレスレットを整える。
「世間じゃ『同性愛なんて有り得ない』って言うじゃん。でも、実際には星花女子だけで何組の百合ップルがいると思う? 『有り得ない』なんて誰にも計れないことなんだよ」
「だからって認めない! いくら女子校だからって、お姉ちゃんは女の子だもん。いつか結婚したいとか、子供欲しいとか、男の人と……」
「その時は諦めるよ。法には勝てないからね」
案外あっさり言われて拍子抜けする。でも、その口調は軽かったわけではなく、むしろ覚悟を決めた重みがあった。いつの間にか店員さんの姿はなかった。
「夏音に認められなかろうが、周りになんて思われようが、ぼくは汐音とずっと一緒にいたいと思ってる。別れるつもりはない。それを言いたかっただけだから」
鉄壁を建てられた気分だった。何か言い返そうとしたけれど、思いついた言葉で崩せる壁ではないことくらい気付いてる。獅子倉茉莉花は「先に戻るよ」と言って、あたしの頭をわしゃわしゃ撫でた。
去り際に見せたさわやかスマイル。やっぱり憎たらしいけど、やっぱり憎みきれない。
「ばーか」
角のマネキンと重なって見えなくなる背に向けて呟く。せっかくのショッピングなのに見る気も失せた。あたしはただ、ラックの陰で独りため息をついていた。