キーラの追走
魔王の居城を出てから、都の郊外までやってきた時、キーラはついにコシュタ・バワーを止めてしまった。
キーラは頭を抱えていた。悩んでいるという意味でもそうだったし、車の棒の上に吊るした頭部を下ろして手で持っているという意味でもそうだった。
そうやって、視線を四の君がいる塔の方向と、魔王の城の間で交互に視線を行ったり来たりさせていた。
キーラはそんな自分を意外に思っていた。
ヘルナイツを結成する前の自分なら、こんなことで悩んだりしなかったろう。
昔のキーラは未来のことなんて考えたこともなかった。ただ毎日が通り過ぎていき、そしてくたばるのだと思っていた。それが早いか遅いかの違いだけで、アンダークラスの街で与太者と些細な理由で喧嘩し命を落としたりとかすることなるとしても、それが深刻なことだとも思っていなかった。《予兆》があるから実際に負けたりもしない。
その才能を使って他人の未来を覗きはすれど、自分の未来については目を背けてきた。
キーラはそういうタイプの女だったはずだった。
アンダークラスの妖精魔人の未来なんて、少しも大事なものじゃない。
魔王の命令を実行するのも、しないのも。どっちだっていーじゃねーか。どっちだって妖精魔人の結末は同じだ。
だがキーラの頭には、かわいそうな四の君と、従妹の顔が浮かんでいた。
下層階級の不良であり、節制する心に欠けるタイプだった女・キーラ。そんな彼女に、ヘルナイツ団長として、部下を預かる立場として過ごした年月が、いつしかそれなりの大人としての責任感を植え付けたのだろう。
魔人は自分一人で生きているわけじゃない。自分一人の問題ではないのだ。
同時に頭に、無意識にセカンドナイツの魔人たちの顔が浮かんだ。
………………。あいつらまだファーストナイツには見つけられてねーんやろか……?
もともとキーラは節制の心に欠ける女。
この夜の彼女は自暴自棄になりかけていた。
ヘルナイツの団長と呼ばれる前のキーラに。魔王の第二夫人に微笑みかけられ、初めて大人扱いしてもらえたのよりもっと前。無敵の《予兆》以外に何も持っていなくて、そしてそれだけあれば十分だと信じていた頃に。
キーラは決意を持って頭を魔王の居城に向けた。
最上階、魔王の居室があるであろう尖塔へ。
それは赤い月に照らされていた。
コシュタ・バワーは四の君の塔の方に向いていた。手網を操り馬首も城へ向けた。
そしてほんの一瞬、また少しばかりの逡巡が生まれた。
もう少し待つか?
塔にいって帰ってきたという時間をでっち上げた方がいーか? 言われたことはやりましたよという報告をする体なら魔王に近づける。
セカンドナイツとも接触を……これだと時間がかかりすぎて、四の君の首はまだかと魔王はんはキレるだろー。
そうした、逡巡の最中だった。
突然尖塔が爆発した。
キーラは何が起こったのかわからずしばらく固まっていた。
尖塔の……魔王の居室があるはずの場所からは、もうもうと粉塵と火の粉が舞っている。
すると、その粉塵を突き破り何かが飛び出したのがキーラには見えた。
赤い月を背景にしたそれは、白い翼を背に持つ、人型の姿をしていた。かなり速い速度で、尖塔から城下へと斜めに滑空していく。
キーラはコシュタ・バワーに鞭をくれた。尖塔から現れた曲者を追ったのだ。
白い翼の曲者は城下の外れの方へ落下し、建物の屋上へと着地。キーラとコシュタ・バワーは家々の隙間を走り抜け、屋上を駆ける曲者を追う。
こいつが勇者だ。そーに違いねー。まさか魔王はんの城に、居室に……どうやって?
曲者はフード付きのローブを着た、男のようだった。どんどん都の外へと向かっている。
キーラは自分がランスを持っていないことに気づいた。
軍議に参加するために都にきただけなので、これといった武装をしていない。あるのは腰の細剣だけである。
彼女は細剣の柄に手をかけた。《妖精爆弾》と呼ばれる、光弾を飛ばす術で曲者を撃ち落とそうかと考えた。だが《妖精爆弾》は魔法ではなく精霊術。インフェルノでは禁じられた、非合法な術だ。
そんなキーラの躊躇のため、曲者はついに都の大門を飛び越えて、荒野に脱出した。コシュタ・バワーも大門を勢いよく駆け抜け追走する。
軍議でのけ者に近い扱いを受けていたキーラは、勇者は人間だとしか聞いていなかった。
だが荒野の先をいく曲者は人間にあるまじき速度で疾駆していた。六頭立ての悪魔の馬車コシュタ・バワーをして、距離を縮めることもできない。
曲者と首無し騎士団長が走る先に、小川と、その向こうの黒い森が見えてきた。
はるか先を走る曲者が、少し振り返るような動きをした。
背後に騎士がへばりついていることに曲者がいつから気づいていたのかキーラには知る由もない。曲者には翼があったが、それで飛んで逃げる風でもなかった。尖塔からも滑空していところから、翼には飛翔能力がないとキーラは判断した。
曲者は視線を前に戻した。小川はすぐ目と鼻の先。少し左手に橋がある。曲者の両手がフードにかかった。橋へ向かうこともせず川へと真っ直ぐに向かっていく。
そして川べりで跳躍。
人間には不可能な高さと距離で曲者は川の上を舞う。その跳躍の軌道が、頂点に達した時、曲者はフードを頭にかぶり──。
唐突に曲者を中心に大きな爆発音がした。
ほんのちょっとの光と、煙も発生した。それは音と比べてささやかだったが。
キーラは顔をしかめて呻いた。
曲者の姿がない。
爆音と同時に、曲者の姿が掻き消えたのだ。
コシュタ・バワーは小川の手前で急停止した。
川の向こうの黒い森を睨むキーラの赤い瞳には曲者の姿がどこにも映らない。
辺りにはなぜか硫黄の匂いが立ち込めていた。
彼女の脳内で、姿を隠匿するいくつかの方法について知識が駆け巡った。魔法か、それとも……。
四の君が飼っている黒い犬が思い起こされた。あの妖精犬も、爆音と共に姿を消す不思議な術を生まれ持っていたような。
…………まさかね。
キーラは川に架かる橋に目をやった。
だがそれは一瞬のことで、きは川を渡ることはせず、すぐにコシュタ・バワーの馬首を巡らせると、曲者が去った方とは反対へと走り出した。
何かは知らないが勇者は姿を消す魔法か何かが使える。それであの森に逃げ込んだはず。それを自分が単騎で追うのか? 得意のランスもなしに? ヘルナイツのナイツメンもいないのに? 睡眠の邪魔されたらしい魔王なんかのために?
堪忍しとくれやす。そんなん他の騎士団の仕事やないの。
キーラは急いで四の君の塔へと戻った。
塔の入口にはキーラの部下がいて、居眠りをしていたので乱暴に蹴り起こす。
そして扉を叩いて、四の君との謁見を願い出る旨を中へと呼びかけた。
扉を開けたのはキーラの従妹だった。従妹はキーラにこう言った。
「こないな夜遅くに、嫁入り前の可憐なお姫様の寝所をおとなって積極的にコミュニケーションを取ろうやなんて、姉様はえろう孤独なお方にお優しいんやねぇ……ほんま、感心するわぁ〜」
のんびりとした声音だがジト目でそう言った。
従妹は要は、姫様は寝ているから起こすな今何時だと思っていやがるんだこの育ちの悪いチンピラのドスケベレズビアンめがと言いたいのだろうということは、長い付き合いのキーラにはわかっていた。そういう回りくどい言い回しをする従妹なのだ。
とにかくそれを聞いてキーラは安心した。曲者はこの塔には、城でのあの出来事の前にもきていなかったということだ。何事もない。
入口の部下をもう一発蹴飛ばしてからキーラは自室に戻ると、一杯飲んで寝た。
城が、魔王がどうなったのか、様子を見にも、曲者を目撃した報告をしにもいかなかった。城から誰かがキーラにそれを聞きにくる者も、四の君の安否を気にかけ訪ねてくる者もいなかった。
キーラが驚いたのは翌朝。もう何度目かの軍議の時だった。
朝一番に招集されて議場に向かってみれば、ファーストとセカンドの団長は欠席していて、それぞれの副団長が上座の方に座っていた。
そこで、昨夜魔王が殺されたという報告が行なわれたのだ。
これにはさすがにキーラも面食らった。キーラはあの夜、魔王は生存しているとばかり思い込んでいたのだ。
何せあの魔王なのだ。まさか人間一人に殺られるだなんて想像もつかないし、第一護衛だってたくさんいるだろう。あの尖塔が爆発したのだって、炎も上がっていたし、炎を操るのが得意な魔王が術を使って勇者を退けたのだとばかり思っていた。だから魔王の安否確認もほったらかして酒を飲んで寝たのに。
いったいいつ勇者は魔王の居室まで忍び込んだのだろう? キーラが魔王に四の君を殺せと命じられたあと、居室を離れる道すがら廊下では誰ともすれ違わなかった。
キーラは昨夜のこと……勇者を黒い森の手前で見失ったことを思い出す。あの姿を消す術だろうか? いやそれでも、護衛はその手の術を見破る力を持つ者が配置されているはず。
キーラはさらに思い出した。昨晩自分が魔王と二人きりで話していたことを。あの時魔王は周囲をキョロキョロしていた。まるで誰も聞いていないかどうか確認するように。どうやら魔王としても、末娘である四の君を殺害するなど外聞の悪いことだと思っていたのではなかったのか。
あの時あの廊下はキーラと魔王しかいなかった。魔王は護衛を下がらせていたのだ。
ではその時だ。
勇者はキーラの後ろについてきて魔王に近づいたのだ。
議場では軍団長たちが喧々諤々の議論を交わしていた。
やれどこへ逃げただの、北はどうだだの、仕事のできない護衛を処刑しろだの、今そんな話をしている場合かまず勇者が先だなど、様々な不毛な意見が飛び交っていた。
ファーストとセカンドナイツは何をしていたのだという声もあった。それぞれのナイツの副団長は、その声を上げた軍団長をジロリと睨むと、我々は都を離れてセカンドナイツと交戦中だったと重苦しく言った。討伐は時間の問題というところまできていたが、それでもまだ戦闘継続中で、だから団長の代わりに我々がここにいるのだと。我らが都にさえいればこんなことには、と。
キーラはその軍議でもずっと無言だった。これまでもそうだったように。
今回は以前と少し違い、うつむき加減にして、顔の前に垂れ下がった髪にさらに隠れるようにしていた。ランタンの中に積もった己の髪に、顔の半分を埋めるように。
口元がニヤついているのを隠すためだった。
おーきな声では言えねーが……いや、よくやってくれはった。ありがとーよ。
あの夜。
キーラは魔王を殺すつもりだった。
だってキーラは騎士団長。四の君を守る騎士だから。誰かが四の君に危害を加えようというのなら、力尽くでそいつを排除するのが仕事だから。それが特攻野郎ヘルナイツの存在意義だから。あとは殺害後の後始末をどうするかだけが彼女の悩みだったのだ。もし自分が魔王に負けた場合従妹はどうなるとか。謀反の噂があるセカンドナイツと協力した方が賢いかとか。そういうことだけが問題だった。
だがキーラがそうやってグズグズしている間に、人間界からの刺客はひと仕事終えたというわけだった。キーラはその鮮やかでスマートな手腕に感動さえしていた。
軍団長たちは相変わらず騒がしく喚き合っていた。
だがキーラの中では、この魔王と勇者の闘いは、終わったことになっていた。
それがインフェルノ……祖国の敗北を意味するものだとしても、もうキーラには関心がなかった。
だってキーラは、そういうタイプの女だから。
これでお姫はんも塔から出られるかも知れねー。塔にいろって言い続けてた本人がくたばったことだし。あの黒いお犬はんも、新しい景色を見られるかもな。
キーラの興味はもうそういうことに向きはじめていた。