ウサギの耳
紫色の衣から、白い衣に着替えたツクヨミが祭壇の前に立っている。
陽菜は儀式の邪魔にならないように、遠く離れた縁側に腰掛けていた。
ツクヨミの姿は見えるけど、声は届かない。それくらいの距離。
セツが居たら「もっと近くで!」と前に押し出されそうだけど、陽菜にとってはこれくらいがちょうどよかった。
(やっぱり、ツクヨミ様は神様なんだ……)
一緒に餅つきをしていたときと今では、ツクヨミの雰囲気がまるで違う。
清楚で、神秘的で、神々しくて。今のほうが、イメージしているとおりの神様だ。
畏れ多くて、近寄りがたい。そんな神様を陽菜は、実際に今この瞬間、目の当たりにしている。
(なんか、変な感じ)
餅とり粉をつけていたにもかかわらず、少し火傷をして薄ら赤くなってしまった手の平に視線を落とす。
ウサギの耳をした精霊達と、神であるツクヨミと、一緒に餅つきをしたなんて話を誰が信じてくれるだろう。
家に帰って家族に話したとしても、夢でも見ていたんだろうと、笑われて一蹴されてしまうに違いない。
(夢……なのかな)
目が覚めたら布団の中で、実はススキを摘みに行く途中で眠ってしまい、祖母におんぶされて家に帰っていたとか……そんなオチではないだろうか。
頬をつねってみると、痛い。痛みがあれば、夢ではないらしい。
(じゃあ、やっぱり……私が見ている今の世界は、本当なんだろうな)
祭壇の正面には、宝石みたいな地球が見える。
(本当なんだとしたら、ここって……やっぱり月で、宇宙なのかな)
ここが本当に月ならば、普通に呼吸はできないだろう。
でも、息はできる。重力の差も感じない。水があるし、建物も建っている。
地球の、陽菜が暮らしている世界となにひとつ違わないのは、ここがセツの言うコッチの世界だからだろうか。
「なんで、コッチの世界に来ちゃったんだろうなぁ」
ただ走って、ススキの原に駆け込んだだけなのに。
タイミングが合って、というようなことを……セツはツクヨミに言っていた。
(ただタイミングが合うだけで、こんな場所に来ちゃうなんてな〜)
セツに出会えたからよかったものの、そうでなければ、今頃どうしていたのか見当がつかない。
でも確実に言えることとすれば、間違いなく、あの道で途方にくれていたということ。
多分コッチの世界には、妖みたいな惑わそうとする悪い存在も居るだろうし……出会えたのが、セツでよかった。
セツだったから、ツクヨミの元へ連れて来てもらえて、帰る道筋を作ってもらえるのだから。
(私は、ツイてる。運がいい)
なにより、この体験は宝だと思う。
神という存在を見て、言葉を交わし、一緒に餅つきまでしたのだ。
人に話しても信じてはくれないだろうけど、心の中にずっと残っていく、とても貴重な陽菜だけの実体験だ。
祭壇の前でツクヨミが礼をし、何事か言葉を述べている様子を黙って眺めた。
池の水面には、地球が映り込む。
空に浮かぶ地球と水面に映る地球の間が、一筋の光で結ばれた。
(凄い……幻想的)
両手の親指と人差し指で枠を作り、見ている空間を切り取る。
カメラを手にしていれば、今この瞬間、この光景を残すことができたのに。
(私の目が、カメラにならないかな)
絵心があれば、もしかしたら、この場面を覚えておいて描くことができるかもしれない。でも陽菜には、そんな技術も画力も無かった。
残念……と呟き、陽菜は手を下ろす。
微かに、ツクヨミの声が風に乗って聞こえてきた。
ツクヨミの言葉は、祝詞を奏上したアッチの世界の人達に向けられたもの。
今コッチの世界に居る陽菜が聞いてはいけない。そんな気がする。
両手を耳に当て、穏やかなツクヨミの声を遮断する。
目蓋を閉じると、静寂が訪れた。
(これで目を開けたら、アッチの世界に戻ってないかな)
ほんの少しの期待を込めて、目蓋を持ち上げる。
すると、空に浮かぶ地球と水面に映る地球を結んでいた光の筋が、どんどん膨らんでいく。袋が限界にまで達して破裂したように、光の粒子が一面に飛び散った。
「うあっ」
大風が吹き抜けるように、光の粒子が駆けて行く。
しばらくして風が止み、顔を守っていた手を退けた。
なにか異変がないか、自分の体を観察する。見た目の変化はなにもない。だけど、少しだけ頭がムズムズする。
なんだろう? と不審に思い、指の先で触れてみた。柔らかな手触りで、長い物が伸びている。
(これって、まさか……)
慌てて両手で触り、頭から伸びている物の全体像を手の平で確認する。鏡を見ているわけではないから、確証はない。でも……。
「ウサ耳だ」
陽菜の頭に、セツ達と同じウサギの耳が生えていた。