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思い出の品

 縁側に置いている折り畳み式の机の上には、花屋で菊をメインに作ってもらったフラワーアレンジメントが飾ってある。薄く積もった淡雪のように、薄く引き伸ばした綿をかけていた。

 薄く引き伸ばした綿は、花嫁が被るベールのようにも見える。何重にも張り巡らされた蜘蛛の巣みたいだな……とも思ったけれど、それだと情緒が無いから、考えなかったことにした。

 本来の()せ綿は、前日から被せた綿で、朝のうちに体を撫で浄める。けれど朝は、ギリギリまで寝ているせいで忙しく、綿で体を浄める時間が取れない。だから、夜の今でも、綿を被せたままとなっていた。

 庭に植えられている木々の間から、朧月が覗く。

 月にかかる薄い雲と、菊に被せている薄い綿が、同じ景色に見えて趣深い。

 私と祖母、それぞれのお猪口に冷酒を注ぎ、干し菊を摘んでパラパラと散らした。


「よし、これでオッケー」


 折り畳み式の座椅子に座っている祖母に目を向けると、雲間から姿を表した月を眺めている。風の流れが速いのか、すぐに月は隠れて、また朧月になってしまった。


「ばあちゃん、用意できたよ」


 大きな声で、ゆっくりハッキリと語りかける。祖母は私の顔を見て、はいはい、と笑顔で頷いた。

 干し菊を浮かべたお猪口を手渡し、自分のお猪口も手に取る。

 ぐい呑みサイズのお猪口に、七分目くらいまで入れた純米大吟醸。小舟のようにユラユラと揺れる菊の花びら。切子ガラスに浮かぶ菊の花びらは、写真映えしそうだ。

 私は飲むのを少しだけ先延ばしにして、菊のフラワーアレンジメントと黒い切子ガラスの徳利、そしてお猪口の位置をザッと調整する。スマートフォンのカメラ機能を起動させ、画面を見ながら最終的な配置を決めた。

 お猪口に浮かぶ菊の花をメインに、一枚の写真で雰囲気が伝わるようなアングルを探す。余白も意識しながら、これだ! という場所を見つけ、シャッターボタンを押した。


(うん、上手く撮れたかも)


 我ながら、菊の節句を伝えるポスターに使えそうな一枚だ、と自画自賛する。あとからSNSに投稿しようと、スマートフォンを折り畳み式の机の上に置いた。

 改めてお猪口を手にし、鼻先に近づける。

 集中して、菊の香りと麹の香りを嗅ぎ取った。

 本来は蒸した菊の花びらを冷酒に一晩漬け込み、移った香りを楽しむのだが、酒に浮かべるだけでも十分だ。

 健康と長寿を願い、お猪口を傾ける。口の中いっぱいに、スッキリとした辛さと麹の香りが広がった。サッパリした後味の中に、菊が残る。菊の香りと少しの苦味。

 これが、初めて飲んだ菊酒の味だ。


「は〜! こんな感じなんだね。二十歳になったから、やっと菊酒が飲めたよ」


 お猪口の中に純米大吟醸を半分残し、祖母に向き直る。すでにお猪口の中を空にしていた祖母は、また月を眺めていた。


「ばあちゃん、美味しいね」


 話しかけると、祖母は私に顔を向け、えぇ、と笑みを浮かべる。


「ありがとう。一年ぶりの菊酒だわ」

「よかった! 来年も、一緒に飲もうね。楽しみにしてるんだから。ばあちゃん、これからも長生きしてよ」


 心の底から願っている想いを告げると、祖母は空のお猪口に視線を落とし、長生きねぇ……と呟いた。 


「もう十分生きたのか、まだ生きたりないのか……。だんだん、できなくなることが増えてきたし、いつも世話ばかりかけて申し訳ないと思っているのよ」


 祖母が、流暢に喋っている。こういうときは、きちんと記憶と思考回路が繋がっていて、ちゃんと会話が成立するのだ。

 嬉しくなって話しかけようとした私は、祖母の浮かべる悲しそうな笑みに言葉を無くした。


「長生きして、ごめんね……」

「……えっ?」


 まさか祖母は、キッチンの近くに居たのだろうか。それで、あの無神経な兄の言葉が聞こえていたのかもしれない。

 いくら耳が遠くなったといっても、聞こえるときは聞こえてしまうのだ。

 実の孫にあんな言われ方をしたら、どんな気持ちになるだろう。想像するだけで、胸が張り裂けそうだ。


(マジふざけんなよ、あのバカ兄貴ッ!)


 悔しくて、やるせなくて、奥歯を噛み締める。

 あのバカ兄貴は、なんて悲しいセリフを祖母に言わせたのかと、怒りが押し寄せてきた。


「そんなこと言わないで! 私、ばあちゃんが居てくれないと嫌だよッ!」


 お猪口に残っていた純米大吟醸を喉に流し込み、空になったお猪口を折り畳み式の机にドンッと乱暴に置く。祖母に向き直ると、ギュッと力いっぱい抱き締めた。


「私は、ばあちゃんが大好きなの。私を喜ばせると思って、私のために生きててよ」


 私が子供だった頃は、真っ直ぐだった背中。今では緩やかに曲がってしまい、一回りも二回りも小さく見える大好きな祖母。

 居なくなるなんて、嫌だ。


「でも、きっと煩わしくなるわ。おばあちゃん、自分でも分かってるのよ。これから悪くはなっても、よくなることは無いんだから……」

「だったら、プロの手を借りたらいいんだよ! 赤ちゃんだって、保育のプロが居る保育園に預けてるんだから。おじいちゃんやおばあちゃんだって、デイケアとか……そういう介護や福祉のプロが居る施設やサービスに頼ったらいいんだよ! 家族だけで手一杯なら、そういう支援を受けて、みんなで協力したらいいの。兄さんみたいなバカは、放っておけばいいんだ!」


 もう絶対に、生きていることを謝らせるようなのは嫌だ。祖母が家に居るのが苦痛なら、家族に世話をしてもらうことに申し訳なさを感じるのなら、生きやすい場所で楽しく生きていてくれるほうが断然いい。

 生きていることに劣等感を与えるようなヤツとは、一緒に居ないほうが幸せなのだ。

 大好きな祖母と離れることは寂しいけれど、会いに行けばいい。会いに行って、今までみたいに雑談して、少しでも一緒な時間を大事に過ごすのだ。


(ダメ……泣いちゃう)


 悲しくて、悔しくて、目の奥からジワジワと涙が浮かび上がってくる。グスンと鼻を鳴らせば、子供のときにしてくれたように、祖母が背中を優しく摩ってくれた。


「ひとつ、お願いしてもいいかしら?」

「……なに?」

「桐箪笥の、一番下を見てほしいの」


 縁側は、祖母の私室と障子を一枚隔てた場所にある。

 手の甲で涙を拭い、障子を開けて祖母の部屋に入ると、電気を灯した。

 部屋の端に、祖母が嫁入りのときに持参した桐箪笥が置かれている。言われたとおりに一番下を開けると、着物をしまっているタトウ紙が重ねて入っていた。


「そこにね、大事って、筆で書いてあるのがあるのよ。持って来れる?」


 上から順番に確認していくと、祖母が説明したとおりのタトウ紙が一番下にある。茶色く色褪せており、年代を感じさせる色合いだ。

 無理やり手を押し込んで隙間を作り、強引に色褪せているタトウ紙を引っこ抜くと、縁側で待つ祖母の元へ持って行った。

 お猪口を横に置き、両手でタトウ紙を私から受け取る。結んであった紐を解き、祖母は膝の上に広げた。

 中に入っていたのは色褪せた襦袢と、蘇芳色の帯。それから、千鳥の模様が入っている若草色の着物。


「へぇ〜。素朴な可愛いデザインね」


 祖母の隣で体育座りをして眺めていると、祖母は節くれだったシワシワの手で、とても大切そうに着物を撫でた。


「おばあちゃんが死んだら、これを一緒に棺桶の中へ入れてちょうだい」


 祖母の発言に、私は目を見張る。もー! と怒りながら、自分の膝をバシバシと叩いた。


「だから、そういうのやめて! 縁起でもないこと言わないでよ」


 不機嫌な私とは反対に、祖母は穏やかな笑みを浮かべている。


「まだね、頭が少しでもシャンとしているときに伝えとかないとね。だんだん、分からなくなってしまう時間のほうが増えてきたみたいだし……」


 伝えられるときに伝えておきたいという、祖母の気持ちは分からなくもないし、尊重したい。

 祖母の意思を尊重するべく、私は言いたい言葉をグッと飲み込んだ。

 体育座りを正座に直し、タトウ紙の中を覗き込む。


「これは? 思い出のなにか?」

「そうよ。セツちゃんに選んでもらった、襦袢と着物と帯なの」


 祖母の口から出た言葉に、えっ! と大きな声を上げてしまった。


「セツって……まさか、話に出てきたウサギの精? えっ、あの? え、マジで?」


 小さい頃から、寝る前のおとぎ話のように語ってくれていた物語。祖母が子供の頃に体験したという、にわかには信じられない妖しい話。

 中秋の名月の日に神隠しに遭った祖母が出会った、ウサギの精。その名前がセツだった。


「えっ、嘘、これ……本物? アッチの世界にあった着物?」


 驚きに、頭の整理が追いつかない。

 ただの創作。夢物語だと思って聞いていた話に登場していた品が、目の前にある。

 祖母の話は、空想や絵空事ではなかったということだ。

 私が祖母のカミングアウトにパニックを起こしていると、祖母は声を立てて楽しそうに笑う。こんなに楽しそうな祖母は、久しぶりだ。


「菊湯に入ってるときにアッチの世界に行っちゃったから、真っ裸だったのよ。それで、セツちゃんが自分の襦袢と着物と帯を貸してくれてね。着たままコッチに戻って来ちゃったから……今も手元にあるのよ」


 祖母の瞳には、懐かしさが宿る。大切な思い出の品なのだと、ヒシヒシと伝わってきた。


「おばあちゃんの話が本当だって信じてくれるのは、貴女だけだからね」


 お願いよ、と祖母は私に念を押す。


(死んだときの約束なんて、したくない……)


 返事ができずにいると、ギュッと二の腕を掴まれた。


「頼んだからね」


 ここ数年では見たことがない、祖母の強い眼差し。

 これは、避けちゃいけない場面だ。

 祖母が亡くなったときのことなんて、想像したくないけれど、託されたのなら責任を果たさなければならない。

 託されたのは、頼まれたのは、私だ。

 でも涙を見せたくなくて、俯いたまま呟いた。


「……分かった。任せて」


 震える声で、返事をする。か細く小さな声だったから、耳が遠くなってきた祖母には聞き取れなかったかもしれない。

 もう一度言い直そうと、手の甲で涙を拭ってから顔を上げる。

 目の前には、嬉しそうな笑みを浮かべる祖母の姿。

 私の声は、ちゃんと祖母に届いていたみたいだ。

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