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バサリと暗幕を被せられたように、世界が闇に包まれた。一瞬の浮遊感に次いで、粘度の高い液体が身体に纏わり付くような感覚。だが私は落ち着いていた。背中にカミュ様の気配と神気が感じられる。カミュ様が一緒なのだ、何も怖くない。
カミュ様はこの事態を予測して、私を抱え込まれていたのだろうか。流石はデキる神様、素敵だ、格好いい、大好──。
『褒め過ぎだ、照れるではないか』
うあぁ、また私の心を読んでましたね?止めてって言いましたよね?
『すまぬ、つい気になってな。其方だけだから許してくれぬか』
殊勝に頭を下げる気配がするが、カミュ様の声は笑っている。楽しそうで何よりですが、ここは何処ですか。呑気に構えてて大丈夫なんですか。
『そうだったな、もう一つ、やらねばならぬ事が残っておった』
唐突に辺りが光に包まれて、視界が開ける。何もない空間だった。カミュ様と初めてお会いした時と似た場所だが、一つ違うのは、カミュ様と私以外にもう一人いることだ。
「ちょっと何よ、何で巻き戻らないの!?」
出来れば二度と会いたくなかった女神が、すぐそこで地団駄を踏んでいる。女神の前には大きな姿見があるが、鏡面に映っているのはエグモント王子だ。何故か青褪めた顔でフローラと抱き合っている。傍らには威厳を取り戻した国王と、とびきりの笑顔を浮かべた父。うん、激怒した父は怖いよね、血の気が引くのも当然だ。
女神はこちらに背を向けていて、私達には気づいていないようだ。姿見に両手を翳して小声でブツブツ呟いては、鏡面に変化が無いことを確認し、キーッと金切り声を上げながら地団駄を踏む。ちょっと面白い。
『ならば暫く見物するか?我は早く用件を済ませて帰りたいが』
あ、お仕事ですね、どうぞどうぞ。呑気に見物しているうちに、時間が巻き戻っても嫌だし。
「女神よ、お前にはもう時戻りの力は扱えぬ」
厳かに告げるカミュ様の声に、女神はキャッと悲鳴を上げて飛び上がった。振り返った女神の顔は驚愕で歪に固まっているが、それでも美しい。
「なんで、貴方が……ベアちゃんまで……」
「大神の決定を伝えに来た。お前の神力は剥奪、この世界はこれから我が弟が管理する」
「貴方の弟って、あの?嫌よ、あいつだけは絶対に嫌!」
「拒否権はない。お前は私利私欲のために神の力を使い過ぎた。何度も通達があった筈だが?」
「知らないわよ!こんなの父様が許すはずが無いわ!訴えてやる!」
「好きにせよ。我はただの伝令だ、では確かに伝えたぞ」
キーキーと喚く女神に全く取り合わず、カミュ様はすいと片手を上げた。転移するのだろう、私達を取り巻く空間がゆらりと揺れる。
「待って!」
バチンと派手な音がして、衝撃がきた。女神がこちらに手のひらを向け、その手が発光している。転移を阻む術でも掛けられたのかもしれない。
カミュ様の神気が濃く、重くなり、不穏に渦巻いている。いつも穏やかで温かなカミュ様の神気が、刺すように鋭く痛い。
「せめて貴方がこの世界を管理してよ!そうだわ、そうしましょう!貴方、ワタシの監視を願い出たくらいだから、ワタシのこと好きなんでしょ?」
空気を読めない駄女神が、はしゃいだ声を上げる。何言ってんの、カミュ様が女神を好きなわけ……ない、よね?
でも女神は美人だし、こんなのでも女神だし、監視してたってことは一緒にいる時間も長くて、カミュ様は優しいから情が湧いたって可能性も──ああどうしよう、涙が出てきた。
一気に不安が押し寄せて、私は思わず、私を抱えるカミュ様の腕を握り締めた。この手で女神に触れてほしくない。女神だけでなく、他の誰にも触れないでほしい。
カミュ様の神気が和らいで、私を抱く手に力がこもる。屈み込んで私の耳元に口を寄せ、カミュ様が囁く。
「泣くな。女神の監視を引き受けたのは、其方を見守るためだ。こんな駄女神には好意の欠片もない」
本当に?
「本当だ、我は嘘はつかぬ」
カミュ様は私の手を取ると、指を広げ、私の手のひらの花に口づけた。淡く光り出した深紅の花から蔓が伸び、私の腕を駆け上って全身に広がり、幾多の花を咲かせる。
「嘘……それって……」
「見ての通りだ。我の花嫁はベアトリスと決まっておる。お前と添うなど、絶対に嫌、だ。案ずるな、我が弟はお前との婚姻を楽しみにしておる。調教しがいがあるとな」
「そんな、酷いわ!ワタシが何したって言うのよ!」
「我が花嫁を散々苦しめておいて、ぬけぬけと。それだけでも万死に値するのに、大神の恩情にまで文句を言いおって」
カミュ様の神気がブワリと膨らみ、女神を捕らえた。いつもと違う、焼け付くような、それでいて凍りつくほどの冷気を纏った神気が、女神を圧迫している。
「先程お前は、我の転移を邪魔したな?我の世界の魂を消滅させた時と同じ愚行を、また犯すとはな。ベアトリスを消すつもりだったか?」
「い、いいえ、そんなつもりは」
「言い訳は聞かぬ。二度と我が花嫁に関わるな。ベアトリスの近くに少しでもお前の気配を感じたら……分かっておるな?」
女神が文字通り凍りついた。




