Catch90 暗君(type3)
照ノ富士全勝優勝おめでとうございます。
前回『悪意の報道』として故池田勇人元首相が被害に遭った事実無根の暴言報道に触れました。
報道とは少し違うのですが、事実とは異なる悪意ある解釈で「ルイ16世暗君説」という物があります。報道と違い、歴史学者が「定説」として研究・発表した物なので、考えようによってはもっと質が悪いかも知れません。
私が「これは無いだろう」と呆れたのは「バスティーユ襲撃の日のルイ16世の日記には“何も無し”と書かれていた、彼は国政に興味を持たない暗君だった」という物です。
これ、悪意もいい所のねじ曲げで、彼が“何も無し”と書いたのは今日の出来事についてではなく「趣味の狩りの成果」でした。歴史家たちが気づかなかったとは言わせません。前後の日付で同じ手帳に「ウサギ2」だの「シカ1」だのと書かれているんですから。
仮にも歴史学者たる者が分かった上で革命の正統性や国王の処刑の妥当性を訴える為に事実をねじ曲げてはいかんと思うのですよ。
やはり革命が起こり旧時代の権威を強引に否定する必要があったせいなのでしょうけれど、ここの夫婦は揃って「悪意の噂」の被害者です。
有名な「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」発言も、実際にはアントワネット王妃は言っておりませんし、ルイ王の“奇癖”扱いされ勝ちな趣味の錠前作りはブルボン王家の家訓に拠るものです。
ブルボン家は家訓として「全てを失い庶民になった時にも自分や家族を養える様に男子は必ず手に職をつけるべし」と子どもを教育していました。鍛冶屋ごっこして遊んでた訳じゃ無いんです。
こうした気配りも革命後は解釈をねじ曲げ悪意に晒されて行きます。
特に王妃の方は「外国人」という点で不利でした。何でもかんでも「あの外国おんなのせいだ」と、やってもいない事、言ってもいない事をやった事言った事にされ、革命が始まる前から評判が落ちていました。
ブルボン家がフランス国王になった当時、フランスは宗教改革に伴うローマ=カソリックとプロテスタント(フランスでは“ユグノー”と蔑まれました)が対立する宗教戦争のただ中にいました。
「ユグノー戦争」と呼ばれる激しい争いの中で最も悪名高いのが1572年に起きた『サン=バルテルミの虐殺』です。王族の結婚式に出席する為にパリに集まっていた新教派の指導者たちを旧教派側が襲撃し、パリだけでなくフランス全土の新教徒が有無を言わせず隣近所の旧教徒に殺されていったおぞましい事件です。
長らくこの惨劇を“指示した”事になっていたのは当時の国王ではなく国王の母親だったカトリーヌ=ド=メディシスでした。イタリアの富豪メディチ家のお嬢様ですが、外国の平民出身という事で宮廷では大人しくしていた人です。
そして国王ともども、事あるごとに対立し反乱だの弾圧だのといきり立つ新旧両派を宥め、暴発しない様に努めていた気配が窺えます。
この王母が突然「新教徒を皆殺しにしろ」と言い、言われた旧教徒たちも「王太后の命令だ、嫌だけど心を鬼にしてユグノーを殺そう」となるでしょうか。
対立が激化する中で勢いに任せてやらかした大虐殺を「あのイタリア女のせいにしてしまえ」となった様に思うのです。
ルイ16世と王妃マリー=アントワネットが国政の責任を押し付けられた時代のフランス王国は、慢性的な財政難に陥っていました。国王の権力が強くなり、その一方で新興の富裕層が司法や行政に関わる様になった不安定な時代です。
従来の支配層だった教会や貴族にも多少でも課税すれば済む話だったのですが、既得権を守ろうと彼らが抵抗し上手く行きません。
ルイ王に必要だったのは社会構造の変化を理解し、既得権者を宥めながら適切な税制を導入するという、とても政治的力量を必要とする作業でした。
課税に正統性を持たせる為に開いた三部会が暴走して逆に革命を惹き起こした事を考えると、とてもそんな力量があったとは思えません。
ルイ16世は14世・15世と続いた戦争と放漫財政のツケが回って来ただけだったのですが、そんな難局を乗り切るだけの高い力量を持っていなかったからと言って「駄目な王様」「暗君」と決めつけるのは酷な気がします。
恐らくルイ16世は「善良な普通の国王」だったのだと思います。歴史の変わり目に居合わせた為に、価値観が逆転した革命後に有ること無いこと全部彼の「失政」のせいにされ、後から「暗君」にされてしまった珍しいタイプの国王だったのではないでしょうか。
フランス革命の助走期間に急速に普及した新聞が、悪意の報道の走りですかね?