Catch88 空間把握
普通の生活者が主権者である場合、領域や国防をどの程度実感している物なのでしょうか。
人類は一応「三次元生物の端くれ」にいる生き物です。
「そんな事無い! 人間は水平も垂直も認識している三次元生物だ!!」と目を吊り上げる方々。100m走と地上100m。どうでしょうか。「同じ100m」と思えますか?垂直方向への距離は水平方向に対して飛んでもなく“大きく”感じませんか?
私たち人類は「三次元を認識出来はする物の、かなり二次元に近い世界に生きている生物」なのですね。
地球上の生物で一番水平方向と垂直方向の感覚の差が少ないのは鳥でしょうけれど、その鳥にしても圧倒的に水平移動の距離の方が上下移動よりも大きい訳で。
考えてみれば当たり前の事なのですが、私たちが暮らす地球という惑星からして生物が生きて行ける事が可能な空間が圧倒的に水平方向に拡がっております。
地球一周で4万km、成層圏は高度12km。宇宙ステーションですら玉子で言えば殻にくっついた砂粒くらいの距離感です。
私たちは水平方向に対する感覚と同じような垂直感覚を持つ必要がなかったようです。
水平方向の移動が主だった活動になる以上、社会を形作る諸々の仕組みは横への拡がりを持つ事になります。一番大きな「国」から「市町村」といった自治体まで、領域は横への拡がりで区切られています。
頭では分かっているつもりでもこの距離感という物も人それぞれで、実際に生身で移動してみない事には実感も湧きません。
成人が等しく主権を持つ民主主義制では、生活圏、つまり大方の人が実感を持てる範囲を行政区画にするのが一番無理が無い様に思います。
そう思っているのですが、何故か日本では近代化を始めた帝国時代から一貫して自治体数を減らし続け、当然私たちの生活をサポートする地域行政の範囲は広くなり続け、「同じ所に暮らす者」といった実感など持ちようが無い「隣町のそのまた向こうの町」などが「同じ市」になってしまっています。
何がしたいのでしょう。
現在フランスの日常レベルでの行政区画、日本語で「県」と訳されている「デパルトマン」は中世の封建領主たちが林立していた頃の領域がベースで、大体政庁の所在地から“馬で1日に行ける距離”がその範囲になっています。
日本で言えば「藩」ですよ。
いいか悪いかは別として、その距離は「同じ所」として実感できる物なのでしょう。
交通・移動手段の発達で距離が縮まったと言われますが、生活圏が広がった実感はありません。
国を司る為政者や行政官僚、軍事関係者などは移動・通信手段から掌握できる領域・範囲を思い描く事が出来るのでしょうけれど、それとて多分に生身の実感を伴わない形而上的な思考の産物の様な気がするのです。
人類で一番鳥に近いのは戦闘機パイロットでしょうね。