Catch83 デオドラント
自然に帰れ
何年か前に『ワイドナショー』(フジテレビ 日曜AM10:00~)で「スケルトンブームが再来しているのか?」という投書に絡めて90年代後半に様々な物のデザインに“スケルトン化”が見られた現象を振り返っていました。
番組で紹介された“スケルトン商品”は主にパソコンやゲーム機器、家庭用電化製品などでしたが、今「来ているのか?」と言われている“スケルトン化”はボトルに入った(本来なら色が付いている)飲料商品が透明化しているという物でした。
コーラにコーヒーラテ、揚げ句の果てにはミルクティーなど「色付なはずの飲料が透明で、なおかつそれぞれの味がちゃんとする」という物です。
私はスケルトンブームに先立って「デオドラントブーム」があった事を思い出しました。
デオドラントは今や「ブーム」ではなく「エチケット」として半ば定着しておりますが、「無駄毛」「汗」「体臭」などを“見苦しい”“人目に付かない様にする事が望ましい”物と見なしてケアし始めるようになった風潮です。
人間本来の生理現象を過度に忌み嫌う「文明化の暴走」、何か不自然な気がして仕方がありませんでした。
従来「そういう物」として普通にしていた生理現象をどういう訳か否定し始め、本来やる必要もない「朝起きて真っ先にやる事がシャンプー(朝シャン)」「“無駄毛”の処理」「体臭を消す薬剤を身体中に吹き付ける」「汗を抑え込むファウンデーションを塗りたくる」等々の行為に時間とお金を使いだしたのです。
エチケットもそこまで行くと「生体活動の否定」ではないでしょうか。どんなに匂いや汗などを隠して見せても最終的にはそうした「隠した方が望ましい物」を生み出す自分自身、自分が有機生命体として存在する事自体を「望ましくない物」と見なす事になる訳ですから。
私が狂奔するデオドラント商戦に「?」だったのは「やる必要もない行為」を必要だと思い込ませ、どうでもいい“ケア”に時間とお金を使わせている一種の詐欺じみた商売に違和を感じたからだったのでしょう。
あの頃はそこまで整理された想いではありませんでしたけど、今にして考えて見ればという事です。
今回“スケルトン化”している商品が揃って「飲料」だという点が気になっています。
自身の生体活動だけではなく「口から摂取する飲食物にまで」デオドラントを求め始めているのではないだろうか、と。
本来付いているはずの色をわざわざ落とし、味だけはそのままという不自然な飲み物が持て囃されている裏側に何があるのでしょう。
デザインとしてはPCや眼鏡ケースをスケルトン化するのは分かるのですが。