Catch73 院政
長過ぎました。
2012年に放送されたNHK大河ドラマ『平清盛』では平氏政権が台頭する院政期真っただ中の時代を描きました。院政。法律上の責任者であるはずの天皇ではなく、天皇経験者に過ぎない太上天皇(上皇)が事実上の決定権を持つ変則的な政治状態の事です。今でも政界や経済界で比喩として使われるくらい似たような状態は現代でもまま発生しております。
残念なことにドラマでは何故天皇を退いた上皇や法皇(上皇が出家して僧侶になったもの)が天皇を差し置いて最高権力者となっているのか、一番肝心な部分を説明せずに昼ドラまがいのドロドロ宮中愛憎劇にしてしまい、歴史ファンにとって魅力が半減した作品になっておりました。それぞれの出演者の熱演も空回りです。
さて、どうして「院」と呼ばれた天皇経験者が最高権力者となったのか、ですが、まず平安末期から戦国時代まで続く中世という時代の社会的特徴が関わっています。
日本は奈良時代に大陸の先進文明である中国の真似をして法治国家の体裁を無理矢理整えます。「律令制」です。天皇が主権者として国家を采配し、実務を太政官と呼ばれる官僚たちが執り行う体制です。これが軍事・司法・行政の全てで法的な根拠になりました。
本家の中国ではこの実務官僚を有名な科挙という国家公務員試験を通じて人材確保をしていましたが、それを出来るほど日本の文化的裾野が広くなかった為に、古代豪族の名残である貴族たちがこれに充る様になります。
中国でも起こった事ですが、宮廷の最高権力者を巡っては天皇以外に天皇の配偶者の親族が天皇の“代理人”として権力を握る外戚政治に移行し、「摂政」「関白」になった藤原北家の当主が政治を差配する様に変わります。さらに天皇の父や祖父が「院」として最高権力者になる変態的な様相に変わったのが院政期でした。
本来の法的根拠である律令はこんな事態を想定してはおりません。摂関政治辺りまでは辛うじて律令体制と言えますが院政は完全に律令を置き去りにした何か別の物です。
一方で律令体制の公的な収入は「公地公民制」で「全ての土地・人民は国家の物」という建前で「班田収授」という土地の配分と耕作、租税の徴収をしていました。しかしこれも私的農園の開墾と「荘園」としての再編成などが進み、摂関政治になる頃には貴族や寺社の収入に化ける様になってしまいました。
中世の大きな特徴は「家業の固定」です。「家の時代」と言ってもいいでしょう。
先に律令官僚として貴族がその役割を担ったと言いましたが、初めの内「どの役職を誰がやるか」は固定していませんでした。しかし時代が下るにつれ、太政官制の様々な役職を代々特定の家柄が占める様になります。陰陽寮は安倍晴明の子孫である土御門家、宮中の秘書官だった外記は清原氏・中原氏、という様に、役職が世襲化していきます。更に国庫収入の一部であった荘園からの収入を役職に応じた「荘園→国庫→給料」という流れではなく、家の収入として「荘園→貴族」としたので荘園が特定の貴族の領地の様になってしまいました。
歴史の授業で荘園の支配者・持ち主を説明する所で「本家職」「領家職」などと説明されてよく分からなくなった覚えがありませんか?
「本家職」とは今でいう国土領有権の様なもので、天皇家・摂関家・有力寺社しか持てませんでした。私的に開墾した農地を公認する権利です。そして官僚として仕える報酬として特定の荘園からの収益の一部を国庫を通さず直接受け取る事を許されていたのが「領家職」という訳です。
藤原氏から院政という形で天皇家が権力を奪還した際に、荘園の許認可権を「院」と呼ばれた天皇家の家長は手に入れています。平安末期に荘園整理令がいくつか出されていますが、私的な開墾地を公的に認可する権限を「天皇=法律上の政府」ではなく「天皇家の家長」が持つ事になったのは、そもそもほとんどの農地が公地ではなくなっており、律令の範囲外の荘園を天皇が口出し出来なかったのと、「家」で世が動いていた事のせいでしょう。
誰が天皇になっていても、「天皇家」の権限は「家長」にある、とみなされる時代でした。有名な保元の乱は兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇の争いでしたが、上皇だ天皇だという太政官制の肩書ではなく「鳥羽法皇の後の天皇家の家長にどちらがなるのか」が焦点の戦争だった訳です。
家長として天下の差配をすることになった人を「治天の君」と言います。天皇経験者ではなく現職の天皇が家長となる場合もありますが、この「天皇親政」天皇=治天は変則的な物とみなされていたようです。
近年「上皇」が何百年ぶりだかに誕生しましたが、皇室典範や憲法の天皇に関する規定を見ると中世に猛威を振るった「院政」の復活をいかに警戒しているかわかります。