Catch50 大正政変
テロや暴動で事態が動くより、選挙や署名で政治を動かす方が、後々を考えれば遥かに社会の利益になると思います。時間は掛かりますが。
今から100年程前、最近の安保関連法の審議の時と同じように国会議事堂が大群衆に囲まれてシュプレヒコールを浴びていた時期があります。
1913(大正2)年2月、明治維新の立役者である旧薩摩・長州両藩出身者を中心に政治が動く『藩閥政治』に反対し、選挙で選ばれた政治家が民意を反映した政治をやるべきだという運動が議事堂を取り巻いていました。第一次護憲運動です。
時の内閣は長州閥プラス陸軍閥の「ニコポン宰相」こと桂太郎首相でした。日露戦争を辛うじて「優勢勝ち」に持ち込んだ功労者の1人(当時も総理大臣を務めていました)ですが、その後も公家出身の元老・西園寺公望と代わるがわる政権を担当して「桂園時代」と呼ばれる民意を映さない時代を作っていました。
実は西園寺公爵は若い時にフランスに留学し、第二帝政崩壊直後のとびきり民主的な空気の中で政治学を学んできた方で、議会政治への理解と、それを支える見識を民衆が持つように教育の充実をはかるなど先見の明を持った政治家でした。
つまり、天皇が政治の表に出てつまずくと皇室が責任を問われる事態になる訳ですが、そうではなく国民一般が政治家を選び、選ばれた議員が政治に責任を持つ事で天皇家が革命騒ぎなどに巻き込まれる事のない体制が好ましいという考え方の人だったと思われます。
一方で、共に時代を担った桂首相は、「政党政治を行う程には日本の社会は成熟していない」という考えで、同時に長州閥の大ボスとして陸軍・政界に君臨していた山縣有朋の影響下を離れて独自の政治的立場を作ろうともしていました。山縣公爵のこの頃の立ち位置を司馬遼太郎氏は「陸軍の法皇」と表現しています。
「子分」桂の離反の気配に、山縣は桂を宮中に押し込めて政界での発言力を封じる為に内大臣に付けますが、桂は逆に天皇の命令(詔勅)を発給するこの地位を使って反政府運動(護憲運動)や政府案に対する議会内の動きを止める「禁じ手」を出し始めます。
野党・立憲政友会の代議士、「憲政の神様」こと尾崎行雄が有名な弾劾演説「玉座(天皇)を以て胸壁(弾よけ)と為し、詔勅を以て弾丸に代えて政敵を倒さんとするもの」と国会で桂内閣の不信任を訴えたのはこの時の事です。
議事堂の外は「立憲政治」「首相退陣」を叫ぶ群衆に取り巻かれ、内側は政友会と国民党(党首は犬養毅)が共闘体制を整え圧倒的多数を野党が占める中で、桂首相は詔勅に依る議会の解散・選挙を行って切り抜けようと図りましたが、衆議院議長の強硬な反対にあって断念、総辞職しました。
大正2年2月20日の事です。帝国憲法時代に唯一民衆運動で内閣が倒れた「大正政変」と呼ばれる事件です。
この大正政変の後、日本は「大正デモクラシー」と言われる政党政治の時代に入ります。しかし憲法上の欠陥から軍の横やりを防ぐ事が出来ず、大陸駐在の関東軍が勝手に始めた戦争に引きずられて破滅へと向かいます。
2015年に安保法案が審議されている間は国会周辺と全国の集会に多くの人が集まりましたが、「ここで踏み留まらなければ大変な事になる」という意識を共有していたように思います。
安倍政権が憲法解釈を突然変更するなど無理に無理を重ねて成立させた安保関連法案で前の憲法の欠陥によく似た法の抜け道を作ってしまった事は「後から振り返ればあれが歴史の分岐点だった」と思われるような重大事になりそうな気がするのです。
問題はデモ (デモンストレーションの略)がデモとして選挙結果に結び付く事が余り無い事でしょうか。これだけ騒ぎになった後も選挙をやる度に与野党の変化が無いなんて…。