Catch49 チャルディラ-ンの戦い
全然違う意味で今もキナ臭い地域ですが。
チャルディラーンの戦いとは西暦1514年に現在のトルコ東部で戦われた戦闘です。
今では想像しにくいですがユーラシアの歴史は長く「騎馬民族」の圧倒的な軍事力に直面し続けた物でした。古くは中国史に記録された「匈奴」「鮮卑」(←字のチョイスに物凄い悪意を感じます)や古代ローマ末期に登場する「フン族」から史上最大の領域国家を作り上げた「モンゴル」、その末流たるインドの「ムガール」ペルシアの「キジルバシ」ロシア南部のコサック(カザーフ)に至るまで、その活動と脅威は広大なユーラシアの全域に及びます。
ユーラシアは北から順に「ツンドラ」「タイガ(針葉樹林帯)」「ステップ」「乾燥農耕地帯」「湿潤農耕地帯」「亜熱帯~熱帯雨林帯」の各気候地域が東西に伸びています。この内「ステップ(乾燥草原地帯)」で遊牧を生業にして成立するのが「正統派騎馬民族」、「乾燥農耕地帯」に進出して騎馬民族文化を引き継ぎつつも農業生産者たちと入り雑じりながら成立するのが「変則的騎馬民族」と言っていいでしょう。
「匈奴」や中央アジアにいた頃のトルコ族は「正統派」、「清朝」を建てた「満洲(女真=ジュルチン)族」やトルコ系ペルシア人(カザ-フ)などは「変則型」になります。
「正統派」は地味薄い地域に暮らすために自身の生産力は南に広がる「農業地域」に比べて格段に低いのですが、高い機動力を持つ「騎兵集団」を形成するために、「国力(生産力)」に全く釣り合わない強力な軍事力を持ちます。農耕地帯に形成された国々は常にこの「略奪者たち」への対応に苦しみ続けました。
中国の歴代王朝やシルクロードのオアシス都市諸国、ペルシア・東ローマ帝国の歴史などは、ほとんどこれに終始している感じです。
防衛体制を突破されると「変則型」国家が誕生します。中国史の南北朝時代に中国の北半分に国を営んだ「北魏帝国」や宋王朝から国土の北半分を削りとった「金朝」、西北インドに侵入した「エフタル」、ペルシア全域を制圧した「イル=ハーン国」こと「フレグ=ウルス」などです。
「変則型」の特徴は支配層である「騎馬民族」(軍事担当)に比べて被支配層である定住民(生産・経済担当)の人口が圧倒的に多いという事でしょう。そしてなぜか「正統派」に比べて軍事力で劣る傾向にあります。
やはり内陸アジアの奥で「歩けるようになる前に馬の乗り方を覚える」と言われる純正遊牧民とは違って「定住民文化」に染まったからなのでしょうか。
チャルディラーンの戦いを行ったのは、どちらもこの「変則型」同士である『オスマン朝トルコ帝国』と『サファビー朝ペルシア帝国』でした。戦い自体はWikipediaにも出ております。記事には画像も付いていますが原画がどこにあるのか確認しようと思ったらキリル文字の注釈で解読できませんでした。多分イスタンブールのトプカプ宮殿かアンカラの国立博物館にある細密画だと思うのですが。
イスラムや内陸アジア諸国は北から眺め下ろす世界観なので、Wikipediaの絵も右側が西に布陣したオスマン帝国、左が東側のサファビー朝になっています。オスマン軍の一番手前には有名な「イェニチェリ軍団」の姿が見えます。赤い帽子を被り火縄銃と騎兵を引きずり下ろす引っ掛け棒を担いでいる兵士たちです。
以前『シーア派』と『スンニ派』の概要を書きましたが、チャルディラーンの戦いもよく「宗派間の対立」で説明されているのを目にします。たまたまトルコがスンニ派主流で支配地域もスンニ派系住民の多い所だったので「スンニ派国家」と見なされがちですが、オスマン家は別にスンニ派の教えを守ろうとしてサファビー朝と開戦したのではありません。
アナトリア高原の東部はシーア派住民が多く、かなり「問題あり」の異端に近い「自称シーア派」国家のサファビー朝の勢力が浸透する気配を見せたので出兵したのです。
一方のサファビー朝は『シーア派』は『シーア派』でも『キジルバシ的シーア主義』と呼ばれる、密教+過激派みたいな、普通のイスラムとも普通のシーア派ともかけ離れた教義を奉じる国でした。「キジルバシ」とはトルコ系言語で「赤い帽子」を意味しています。ペルシア北部からアナトリア高原にかけての山岳地帯に土着化した、モンゴル系『イル=ハーン国』勢力の残党です。
このキジルバシたちを取りまとめ、ペルシアに幾つか残っていたモンゴル系小勢力を征服したのがサファビー家でした。最初から少し「イッちゃってる」神がかりの騎兵集団で、何千年も前から繰り返された「騎馬民族」の強さを周辺諸国は再確認させられる羽目になります。
この頃のトルコ帝国は自身が「変則的騎馬民族国家」だったにも拘わらず、軍制改革で銃と大砲を主力に据えた「歩兵軍」となっていました。チャルディラーンの平原でぶつかった両軍の戦いは、数を揃え火力を重んじたトルコ側の圧勝に終わりました。
チャルディラーンの戦いは史上初めて歩兵が中央アジア直系の騎兵軍団を破った戦いとして戦史に刻まれる事になります。長らくユーラシア最強の軍事力を誇ってきた騎馬民族を、銃や大砲といった科学技術の進歩が凌ぐようになったのです。
低い生産力にも拘わらず軍事力で優位を保ち続けてきた遊牧民族は、以後農業国を支配下に置く事が少なくなり、次第に歴史の主役から退いていきました。
明らかに歴史上の大きな転換点だったと思うのですが、高校くらいまでの授業ではまず教わりません。『歴史』を学ぶ意味が「自分たちが生きる社会」がどのような経緯を経て今現在の形になったのかを理解する事にあるなら、「イスラム世界の出来事だから」或いは「軍事関連の事だから」と省いてしまうのはおかしい気がします。
軍事そのものに触れさせない事が「平和教育」という訳ではないのですから。
大きな流れの中で歴史を捉えると面白さも格段に増します。