Catch47 独立の代償
内戦の最大の問題は人材の喪失でしょう。
随分前に法律事務所で働いていた頃、職場で弁護士と「結局“民族”って何なんだ?」という雑談を交わした覚えがあります。私は「“言葉”じゃないですか」と答えました。ほとんど思い付きの答えだったのですが、案外的外れでも無かったように思っています。
後に読んだ田中克彦著『国家と言語』にも「文化を共有する集団としての民族を維持するのは“言語”(ただし絶対的な物では無く限界はある)」という趣旨の見解が書かれているのを見つけた記憶があります。
18世紀後半にアイルランドの独立運動がその後の独立達成に繋がる具体的な形を取り始めたのは、アイルランド古来の「ゲール語」を復興しようという運動が、かなり人為的ながら被支配者の地位に甘んじさせられていたアイルランド人に“民族の自覚”と“アイデンティティ”を根づかせ掘り起こした事も大きかったように思います。
「言語」が持つ価値観の共有が、支配者・イギリスの同調圧力を跳ね返す元になったのです。
映画『マイケル=コリンズ』でも「イースター蜂起」失敗後の組織と運動の再建の中でデヴァレラ大統領はイギリスの支配の“無視”を訴え、主人公のマイケルは支配を“拒絶”せよと民衆に説きました。支配-被支配の関係は“当事者の双方が受け入れてこそ成り立つ”という真実を突いた戦略だった訳です。そして最終的にはそれが正しかった事を証明しています。
「ゲール語復興運動」は主に社会や思想の指導者たる知識人層にまず共鳴・賛同され、独立を穏便に達成しようと考える「アイルランド議会党」を生みます。分断していた独立運動勢力を大きくまとめ上げ成功するかに見えましたが、指導者パーネルのスキャンダルが報じられ空中分解してしまいました(パーネルが失意の内に死んだのは1891年)。
やはり武力だ、それならイギリスの敵・ドイツに援助して貰おう、と考えて実行し、あてにしていたドイツの援助も無いままに見切り発車して惨敗したのが映画『マイケル=コリンズ』の冒頭で描かれた「イースター蜂起(1916年)」。
武装闘争派が穏健派独立運動を提唱するシン=フェイン党に合流し、アイルランド独自の議会(ドイル=エアラン)を結成し、アイルランド共和国の成立を宣言して独立戦争が始まるのが1919年。
アイルランド側の執拗なゲリラ戦術にたまりかねたイギリスが「自治領の一種として」アイルランド自由国を認める条約を結んだのが1921年。
この条約に「北アイルランドの分離」が含まれていた為に、「分離絶対反対」と大統領のデヴァレラが議会や暫定政府(自由国政府)と決裂してアイルランド人同士が殺し合う内戦が始まります。
まるで滝に近づくにつれ川の流れがだんだん早くなって行くように、時代の流れが早まっているみたいです。そして内戦の中で新しい国を支え、作って行くはずだった多くの人材が命を落としていきました。映画『マイケルコリンズ』でその死が描かれた人たち以外にも例えばデヴァレラ離脱後の暫定政府を支えたジョー=グリフィスは内戦の最中に心臓発作で世を去り、マイケルと激しく対立していた国防大臣カハル=ブルーアは内戦開始1週間後にダブリン市内で射殺されています。新生アイルランドが払った犠牲は余りに巨大な物だったのです。
余談になりますが、映画本編の最後に「デヴァレラ大統領」の言葉が字幕キャプションで紹介され、「1965年」となっているのは誤植ではありません。内戦勃発最大の責任者だったこの人は、同志や政敵が次々と死んでいく中を生き延びて大統領に返り咲き、1970年代まで首相や大統領として君臨し続けています。
人が生きる便宜として国家があるのであって国が人を作るのではありません。権力や政治を人命に優先させると本末転倒な愚行を惹き起こす事になります。