Catch45 多様性
躾という言葉が死語になりかけているのではなかろうか。
為政者・政治家や行政が使う「耳慣れないカタカナ言葉」には注意が必要です。
以前『語学教育の歴史』で書いたのですが、明治維新の後で長らく親しんだ「中華文明圏」から「欧米文明」への“乗り換え”を断行した日本は、欧米由来の概念を漢語であらかた翻訳するという“離れ業”をやりました。
「銀行」「哲学」「経済」「愛」など、今では何の違和もなく馴染んでいる多くの言葉が、この時代に編み出されています。
これは日本語が言語学的には「膠着語」と呼ばれる、“外来語”を構文に取り込み易い語学上の特徴を持っていたために可能だった事です。この遣り方がとても汎用性に富んでいる事は、様々な専門家が指摘しているところです。
「GUTENMORGEN、今日も朝から太極拳でシェイプアップして…」などと意味さえ通じれば単語ならドイツ語だろうが中国語だろうがボンボン日本語の文章の中に放り込めます。
もう1つ、日本語が「カナ」というやはり汎用性の高い道具を備えていた点も見逃せません。漢語訳するとかえって分かりにくくなる場合や固有名詞などを、原音に近い発音を再現して表記する事が可能になっています。カナの無い中国語などは異文化圏の単語を表記するのにとても苦労しています。「陀思妥耶夫斯基」これで「ドストエフスキー」ですよ。
ただ、漢語訳が無理なく出来たり、既に日本語化された表現があるのに、わざわざ「カタカナ」で改めて出して来るケースが最近目立ちはじめている様な気がしています。「アジェンダ」とか「マニフェスト」とか。「ダイバーシティ」などもそうですね。「多様性」あるいは「多様化社会」では何か不都合なのでしょうか?
私は「点字ブロックを跨いで路肩駐車している」「スマホを見ながら道の真ん中に歩いて来る」「一方通行を知らないのか逆走してくる余所者ナンバーの車」「最短ルートを塞いで立ち話に耽る邪魔な信号待ち」など日常の諸々の迷惑行為を不快に思いますが、私は別に「世の中全部が健全であるべき」と主張している訳ではありません。バランスが崩れた状態と言いますか、何に付け「大半が同じような物・事に占められてしまっている状態」という在り方に居心地の悪さを感じるのです。
別の言い方をするなら「少数派がそれなりにやって行けない世の中」とでもしましょうか、「スタンダード」の占める割合が大きすぎる状態です。
居心地悪いですねぇ。
「同調圧力」という概念がある事を知り、居心地の悪さの正体が何となく分かって来ています。つまり私の感じている居心地の悪さとは「意にそまない意見に数の力その他で同調“させられる”」部分なのでしょう。
皆がみんな、同じような商売、同じようなメニュー、同じような暮らしを望む訳ではないのですから。「標準サイズ」ではないいき方も様々にあっていいと思うのです。正に「多様性」、いや、今は「ダイバーシティ」ですか。
仮に私が望ましく思っている「節度のある社会」がスタンダードになったとして(そんな事はまずないでしょうけれど)、私が諸々腹を立てている“迷惑な人たち”が「いなくなってしまえ」とは思いません。ただ割合がもう少し減ればより快適に過ごせるのに、と不愉快に思いはします。
ながらスマホなどに代表される街角の「はた迷惑」は、相当努力しても無くなる事はないのでしょうが、いくら何でも“増えすぎ”です。
「多様化社会」になるにしても、せめて「マトモ」と「迷惑」、「大人」と「子ども」の割合が不愉快にはならない程度でバランスが取れてくれない物かと思います。
怪しいカタカナ語を小池都知事が使わなくなりました。感染症対策で知的アピールなどしている余裕が無くなった様に思います。