Catch4 御館の後
今回は歴史(地方史)です
新潟県の北部に私の出身地・新発田という町があります。
非常に変わった表記の地名ですが、語源は「新田開発」によるともアイヌ語の「シビタ(鮭の獲れる地)」によるとも言います。
新発田のある辺りは蒲原郡と言うのですが、これもアイヌ語の「カンパラ(人の住む場所)」が語源とする説がある事を考えると、後者の方が実際に近いのかと思われます。
1578年に一代の英雄・上杉謙信が没した後、越後は全土が上杉家の跡目争いに巻き込まれました。
後世に「御館の乱」と呼ばれる内乱です。争ったのは共に謙信の養子であった北条家出身の上杉景虎と上田長尾家出身の上杉景勝でした。
越後は上杉家の領国とは言え、各地に上杉家と出自を同じくする(つまり元は同格だった)地生えの勢力が割拠しており、利害関係によって真っ二つに分かれてしまった訳です。
景虎方が関東から越後に亡命中だった上杉憲政(前関東管領)の館に逃げ込み、憲政もろとも攻め滅ぼされた事から、『御館の乱』と呼ばれています。
景勝の出身は前述の通り「上田長尾家」です。側近として有名な直江兼続など、現在の新潟県六日町や十日町辺りに勢力を持っていた「上田衆」が新政権の中枢を占めました。
上杉家の一国支配に思いがちなのですが、当時の越後は群小の土豪勢力の連合が各地にひしめいていました。
代表的なのはこの内陸部の「上田衆」、国府のあった春日山近辺の「頸城衆」、信濃川流域の「毛利衆」、そして阿賀野川以北に蟠居する「揚北衆」あたりです。
上杉家の本拠地から最も遠い「揚北衆」は、阿賀野川を遡れば会津に至り荒川を遡って米沢に至る土地柄、会津の蘆名氏・米沢の伊達氏とも古くから交渉を深めていた勢力になります。
『御館の乱』では景勝を支持した「揚北衆」でしたが、新政権からは締め出された形になりました。
これを不満に思い(当然ですね)、西の越中口・南の信濃口から上杉領へ侵攻中だった信長と連絡を取って反旗を翻したのが新発田城主・新発田重家です。
現存の新発田城は新発田氏滅亡後に国替えでやって来た溝口氏が築いた物なので、この『御館の後』(「天正越後の乱」とも言いますがあまり一般的ではないようです)の当時を偲ばせる物はほとんどありません。
途中で本能寺の変が発生した後も、景勝が四方を敵に囲まれている状況は変わらず、水郷地帯だった蒲原平野の地の利を活かして小出しの討伐軍を破り続け、反乱は意外にも7年に渡る長い戦いとなりました。
最後は景勝が信長の後を継いだ秀吉に臣下の礼を取り、揚北衆を支援していた伊達・蘆名両家と講和した上で全面攻撃に移り、新発田氏は分家の五十公野(←これもアイヌ語の名残でしょうか。極めて珍しい地名です)城主ともども滅亡します。
現存の新発田城は旧本丸跡が陸上自衛隊の駐屯地になっていますが、元の水堀が暗渠になっている敷地の北西部が不自然な曲線を描いています。
脇を走る道路もそれにならっているのですが、この曲線に囲まれた内側が新発田氏時代の本丸跡だったと言われています。
『御館の後』の越後の騒乱は大河ドラマなどでもほとんど描かれない事が多く、注目されることはあまりありませんが、戦国末期から江戸時代へと時代が変わっていく中で、案外重要な戦いではなかったかと思います。
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