Catch37 交通権~実在しない多数者の事
幾度か触れましたが、「少数者」が暮らしにくい世の中は「多数者」に取っても暮らし易い社会ではありません。
以前、(2015年)新宿の日本共産党区議団が主宰した『コミュニティーバスシンポジウム』を聴講してみて大変考えさせられた事があります。
講演に「新宿にもコミュニティーバスを」と訴え続けている新宿の共産党議員団、台東区(浅草や上野のある区)でコミュニティーバス『めぐりん』を実現した台東の元議員さん、「交通権学会」理事の方からお話を頂き、都レベルでどうなっているかの報告・解説が新宿選出の都議会議員である大山とも子さんのメッセージビデオで流されました。
「交通権」という言葉を初めて聞いたのですが、「どのような条件でも人は“行きたいと思う所に移動する権利”がある」という考え方だそうです。
専門家の方が専門の知識を惜し気もなく伝えて下さる場というのは知的な興奮をもたらす物ですが、この時もそうでした。「ミスターアベレージ」、“実在しない多数者”というのが「交通権」と並んでこの問題のキーワードになります。
行政や企業が「バリアフリー」をやる時に“想定”しがちなのがこの「ミスターアベレージ」です。1974年の国連レポートに出てくる言葉だそうで、“肉体的に最もよく適応出来る壮年期の男性”、言葉を変えれば“放って置いても自力で何とでも出来る人たち”の為にエレベーターやエスカレーターが設定されている、という物でした。
不思議に思った事は有りませんか?
「何故駅のエスカレーターは登り方向が多いのだろう?」
「何故エレベーターは隅っこの不便な場所にあるのだろう?」
通勤帰宅時のミスターアベレージ、“壮年期の男性”を想定していたのですね。本当にエスカレーターやエレベーターがないと困る交通弱者の事を考えていないのです。
上りのエスカレーターはミスターアベレージには「下りより上りの方が大変だから助かる」のでしょうが、脚力の弱い障害者や年配の方々は「下り」こそ怖い。上りで転んでもそれだけですが、下りでコケたら転がり落ちます。
高田馬場には全国でも珍しい『点字図書館』が有ります。これが駅から最低1度はバス通りを横切らなければたどり着けない所に建っています。
高田馬場の駅前ロータリーの、駅からも反対側からも横断歩道を渡らなければ行けない「中の島」に障害者用のエレベーターが設置されています。「本当に必要な利用者」の事を考えていなかったというのは、私の身近にある例を考えてもすぐにこれだけ思い付きます。
講師の先生は(森すぐるさんという方です)1976年に起きた東急バスが重度の身体障害者の乗車を拒否して真冬の川崎駅前に暖房を切ったバスの中に置き去りにした事件などを紹介し、「ハンディを持った人間は“ミスターアベレージ”の邪魔にならないようにじっとしていろ、と言わんばかりの“世の中の常識”を変えて来たのは、障害者たち自身の要求と運動だった」と言う流れをお話下さいました。
国連のレポートは「ミスターアベレージ」について次のようにも述べています。「統計的に言えばたとえ適応出来る人がいても少数の人しかこのカテゴリーには属さない」と。
46年前に指摘されている、実在しない多数者の想定が、未だに都のバス路線の維持・廃止やバス停・駅の設置、新宿区がコミュニティーバスの開設を拒み続ける行政判断の根本にあるという事です。
そして、世の中は変わる物、私たち自身がより良く変えて行く物だと、レポートの分析と各種の改善運動が示しています。
弱者に厳しい「常識」を支えている“多数”は本当の多数ではないのです。ミスターアベレージの対義語は「多様性」です。
福祉というのは「施し」でも「同情」でもなく、自分自身や自分以上に大切な人を守る「人間らしく生きる権利」の一部分だという事でしょう。