Catch34 語学教育の歴史
自国語ともう1つくらいを使いこなせれば大分地球も狭くなるのですが。
2000年代に入ってから日本でも徐々に“グローバル化”とやらを唱えて社内の使用言語が英語などという企業も出てきましたが、長らく日本人の生活や生産活動は圧倒的に自国標準語たる日本語が通用してきました。
「世界を視野に入れた活動には英語やフランス語などを社内標準語にした方がいい」と“自国標準語”以外の言葉で普段から業務を行おうとする考え方ですが、ヨーロッパや中央アジア、アフリカ、インドのある地域の様な「いやでも母語以外の言葉を身に付けないと生活に重大な支障を来す」という本質的な多言語地域ではないので、他言語との併用(日本語と外国語)を採用している会社すら殆どありません。
もう一つ、自国標準語以外を行政や企業活動に使用する場合に多いのは、植民地など地元の歴史的文化・社会に関わりのない他国に支配されているタイプです。
言語というのは面白いもので、文化や経済などが優れている「先進国」の言葉ほど周囲や関りを持つ国・地域・人々に浸透していきます。特に高度な、或いは複雑な概念などは“低い方”の言語に無い場合が多いので、概念を通用させるために大元の先進国の言葉ごと学ぶ大掛かりな事になってしまいます。
哲学者の内田樹さんに『日本辺境論』なるかなり挑発的な題を持つ著書がありますが、主旨は「日本は文明の中心になった事はない」「常に先進文明に学び続けてきたので“自分たちの先生である先進国からどの程度評価されているのかを気にし続ける、という現象が起こる」というものでした。他にも色々考えさせられる内容でしたが語学教育に関係ありそうな部分はこの辺りでしょう。
日本が文明に触れ、先進国に学び始めた時、先生になったのは中華文明でした。幸か不幸か中国語は世界でも稀にみる「文字の比重がとても重い言葉」だったために、本来「耳で聞いてまず覚える」事が普通の外国語の勉強において、「読み書きから覚える」という例外的な外国語学習が日本で外国語(漢語)を覚える“当たり前”になってしまいました。
以前、シンガポール育ちの知人に「日本はどうして外国語の授業をその学ぶつもりの言葉でやらないのか」と不思議そうに聞かれた事があります。
彼は両親も本人もアメリカ国籍で文化的人種ではアメリカ白人とチャイニーズアメリカンのルーツを持ちオーストラリアで生まれシンガポールで育ったというややこしい経歴の持ち主でした。
学校時代を過ごしたシンガポールは標準語(公用語)が「英語」「マレー語」「中国語」「タミル語」と4つも有り、普通に2つ以上の言葉を使うのが当たり前の生活をしてきた人です。
どの授業も学ぶ言葉で授業がされていたのに、日本式の「日本語で授業をする」やり方で本当に外国語を話せるようになるのかと納得がいかないような様子の彼の話を聞いて、なんとなく日本人が外国語を使えるようになるのにすごく苦労する理由の一つが分った気がしました。「言葉とはまず耳で覚えるのが本来で、読み書きはその次に来る物」と。
遣隋使以来、日本が学び続けた漢語(中国語)は進んだ技術や概念、文学などを知る分には「話して通じる」という言葉の原点が要らなかった稀有な言語でした。
しかも日本ではその中国語に「訓読み」を付けて「自国語化」してしまいました。ますます「しゃべり」が要らない環境になった訳です。
平安末期、後白河院の側近として政治改革を主導し、平治の乱で殺された信西入道(藤原通憲)などは南宋から来た中国人と会話が出来たそうですが、例外中の例外でしょう。一体どういう勉強をしていたのでしょうか。
現代の標準的な日本の教育を受ける大多数の日本人にとって最初に使う外国語辞典が「漢和辞典」である事も「漢語を文字で学んできた日本人」を裏付けています。「漢字辞典」ではなく「漢和辞典」です。「漢語」と「和語(日本語)」の対訳辞典です。その次に来る外国語の辞書が「英和辞典」でしょう。
戦国期にようやくポルトガルやエスパーニャが日本近海にも現れますが、当時の西洋は日本にとって「中国とは別系統の文明」ではあっても「中国より優れた文明」ではありませんでした。
しかも豊臣政権時代に西洋人がキリスト教とセットで侵略をちらつかせたせいで禁教をくらい、島原の乱と徳川政権の鎖国政策(厳密に言えば極端な“国交制限”政策)で西洋文明との交流を一般庶民が感じられない程度にすぼめた事でごく一部を除いて西洋語を学ぶ必要性が無い時代が200年以上続いてしまいました。
大きく変化したのは清がアヘン戦争でイギリスに敗れたという情報が入ってきた幕末です。「今はどうも東洋より南蛮・紅毛の方が強いらしい」と初めてアメリカを含むヨーロッパ文明の方が先進国なのかも?と外国に対する認識が軌道修正に入りました。
そして開国と明治維新を経た文明開化で中国 (とわずかながらインド)由来の先進国(先生)が西洋諸国に変わりました。
ところが日本式の「まず読み書きから学ぶ」外国語教育は学ぶ言葉が漢語から英語に変わっても続きました。そして西洋由来の様々な概念を漢語訳するという離れ業をしてしまいます。
2021年の大河ドラマの主人公は明治維新後の日本を近代化させた功労者の一人、渋沢栄一ですが、彼が設立した近代的金融機関である「銀行」などは漢語訳の傑作と言っていいでしょう。「行」の字に「店」という意味がある事など本家の中国でもあまり使われなくなっていたせいで忘れられかけていたのですから。
その他にも「哲学」やら「因数分解」やら「共和国」やら、片っ端から漢語訳することで“準日本語化”してしまい、ますますそれらの概念を含むフランス語なり英語なりを「会話レベルで習得する」必要が薄れたのです。
外交官や留学生は聞き取りと発話に一番苦労しただろうと思います。日本が近代技術を学ぼうとした欧米諸国はまず会話能力で語学力を測る社会だったのですから。
1990年代の話ですが、経済界の重鎮たちが政治家や外交官と連れ立って主に西アフリカ諸国に経済協力や通商協定の締結に出かけた事がありました。
向こうで応対した経済人や大臣クラスの政治家たちは「日本は大学を出なくても大企業の経営者や国政の責任者になれるのか?」と首を捻ったそうです。
訪問先の諸国はイギリスかフランスの植民地だった所が大半で、現地隣接地域とのやりとりはアラビア語かスワヒリ語で済んだとしても、条約交渉や締結後の文書化は英語かフランス語で行われるものだったからです。
日本の代表団たちに英語で話しかけてもフランス語でも曖昧に笑って「わからない」ということを示すばかりなので、「英語もしくはフランス語で会話できない」=「高等教育を受けていない」と判断されたのです。大学レベルでの教育を自国語で受けることが出来る有難さを身に染みて感じるエピソードでした。
「共和国」なども漢語訳の傑作ですが、それはまた別の機会に書く事にします。