Catch32 黄河
天災の被害を大きくするのは人の備え次第という気がしています。
「命長ければ恥多し」とは中国古代、堯王の残した言葉です。
聖三代と呼ばれる堯・舜・禹はそれぞれ血統ではなく人望や実績を評価されて王となった人たちで、「だから良い政治が行われた理想の時代だった」とされています。ローマの五賢帝も似た様な評価を受けています。
三代の最後、禹王の息子がたまたま人望も実績も兼ね備えていた為に父親の後を継いで王となりましたが、以後中国では「前王の血を引く者」が王になる資格の条件になりました。世襲王朝の始まりです。
中国最初の「夏王朝」です。
夏は紀元前2000年頃の成立と推定されていますので今から4000年程前の事になります。
禹が王に選ばれたのは黄河の治水で業績を上げて評価されたからでした。実は禹王の父親は鯀といい、堯王から黄河の治水を命じられて失敗した事で死に追いやられた人だと言われています。
父親の遺業を舜より任された禹が、原初の中華世界を大きく拡げる事になる黄河の治水に成功した事が彼を舜の後継者に押し上げました。この時禹が築いた堤防は黄河中流域 (現在の河南省辺り)の「金堤」「白茅堤」だったと伝わります。
中国では自然災害が起こるのは「天の意思を地上世界に反映させる責任者である為政者の行いや心掛けが悪いからだ」という考え方が有ります。
実際に歴代正史(中国の政権が編纂した公式な歴史書)には王朝の末期に諸々の天変地異が「これでもか!」とばかりに沢山記述されて居りますが、それはこうした世界観の反映です。
例えばモンゴルが中国全土を支配していた元王朝時代の末期には「女性に髭が生えた」「青年が妊娠した」「巨大な貝が見つかった」「揚子江が干上がり泥の中から古銭が沢山回収された」など数々の異変が記されています。
元が滅ぶきっかけとなった黄河の大氾濫も記録されていますが、「金堤・白茅堤が禹王の築堤以来初めて切れた」と書かれています。伝承を信じるなら金堤・白茅堤は実に3500年もの間メンテナンスを繰り返しつつ華北の大地を守り続けていた事になります。
先に挙げた「天変地異」や「怪異」は“世界の秩序”たる陰陽の乱れを表す物が大半ですが、この黄河の氾濫だけは行政の衰えが災害を防ぐ事に失敗して人の営みを破綻させた、極めて社会科学的な現象を伝えている様に思います。
モンゴル族の政権が国土の保全に適切な予算を回す余裕が無くなった事が、肥沃な大地をただの荒野に変えてしまいました。
信じられない事ですが、元はこの頃内乱に明け暮れていて、華北・華中を水浸しにした黄河の氾濫を収束させる為に堤防の修復に乗り出したのは決壊から7年後の事でした。
そしてこの修復作業の為に集められた工夫たちが反乱を起こしてモンゴルの支配を崩壊させて行く事になります。
災害の頻発は統治能力のバロメーターなのかも知れません。