Catch28 暗君 (type1)
中国史上に名を残す愚かな君主は数多く居りますが、これは珍しい型です。
最近のワードプロセッサー機能の進歩には目を瞠る物があります。マイクロソフト社の「word」を使った事のある方はご存知でしょうが、ただ文章を作成・保存するだけでなく、字の大きさや字体なども自由自在に調整できるので、今や素人でも殆んどプロ仕様の文書を仕上げる事が可能になっています。
字体を選ぶ欄には「italic」「MSブロック」「明朝」等などよく使われる代表的な物に加えて「gautami」「cry」など“何処で使うの”と言いたくなるようなマニアックな物も選べる有り様。
私が仰け反りそうになったのは「痩金体」を見つけた時です。“痩金”とは中国・北宋時代 (AD960~1127)の第八代皇帝 徽宗の号で、彼が創作した書体が痩金体です。
こんな物まで使えるんですか。マニアックもいい所で、実用性はほぼ無いと思うのですけど……。
徽宗(在位AD1100~25)が生きた時代は有名な小説『水滸伝』の舞台になった北宋王朝末期で、彼は事実上北宋を滅ぼした暗君として歴史に名を残しています。
一流の文化人だった彼の代表作『桃鳩図』は有名です。画像検索すればすぐに出てきます。この絵の右上に書き付けられている文字も徽宗の手になる物で、この書体こそ件の痩金体です。
元々彼は第六代皇帝 神宗の六男として生まれ、自分が巨大帝国の皇帝になるなどとは思いもせずに育ちました。帝位を継いでいた兄が急死した為に、宮廷内の様々な思惑が転がった末に“棚ぼた”の様に彼が即位する事になった訳です。
しかし、そんな暢気な“風流天子”が無事に国の最高責任者として過ごすには時代が悪すぎました。父・神宗が社会体制を立て直そうと採用した「新法」 (提唱者は宰相の王安石)と呼ばれる一連の政策は、国防や税制で負担がのし掛かっていた民力を回復させる為に様々な保護措置を取ろうとした物です。
軽減した分の負担を富裕層に期待したのですが、彼らは政界及び官僚に多くの人材を出しており、既得権益が削られる新体制に猛反発しました。
国政を健全に保つには「各階層に平等・応分な負担をさせるべき」と考える政治家と「格差は社会で果たす役割の重さの差で、“富裕層”が優遇されるのは当然」と主張する政治家に分かれて激しく争っていたのです。1000年前にも新自由主義ってあったんですね (ちっとも“新”じゃ無い)。
神宗や兄の哲宗時代を経て両派の争いは政策に対する考え方の違いから、単なる党派の感情的な反感・反発レベルにまで落ちていた所に“風流天子”の登場です。しかも大宋帝国の北方では新たな軍事的緊張が生まれつつありました。
長らく宋を圧迫していた契丹族が新興の女真族に圧されて弱まり出したのです。
宋はジュルチン族と結び、敵対と和平の締結を繰り返して来た“馴染み”とも言えるキタイ族の遼王朝に攻め掛かりました。衰えたとはいえ騎馬民族のキタイ族の反撃に宋は録な戦果を挙げられず、遼はほぼジュルチン族(この頃「金」という国号を建て国家としての体制を急速に整えていました)が独力で滅ぼしました。
宋は素朴さと荒々しさを濃厚に持つ“新たな隣人”金に対して条約違反など不誠実な対応を繰り返し金側の不信感をつのらせます。
交渉を有利に進めるつもりでキタイの残存勢力に金への蜂起を呼び掛けた事までバレるなど不様をさらしました。
「こんな奴らをまともに相手にする必要は無い」と判断した金朝の首脳部は大軍を発して宋の首都・開封を占領し、停戦条件を交渉していた最中に更に騙し討ちの様に宋側から攻撃された事で、退位して上皇となっていた徽宗と現職の皇帝だった欽宗を捕虜として北の草原へ連れ去り宋王朝を滅ぼしてしまいました。
欽宗は徽宗の息子で、開封を囲まれた時点で帝位を譲られた(というか押し付けられた)ばかりでした。戦場となった中国北半の住民こそ災難です。
そもそも宋が北方戦線に十分な軍事力を振り向けられなかったのは、徽宗が「立派な庭園が作りたいなぁ」と全国から良い石や樹木を徴発したり「最高級の文房具が欲しい」と素材の開発から始まる筆・硯作りなどをやっていたせいで、その費用を捻出する為の増税で大反乱が起きていたからです。
この「方臘の乱」は『水滸伝』にも描かれていますが、梁山泊の豪傑たちが多く討ち死にする程強力な物でした。全土がこの反乱で疲弊している所に金軍が攻めかかって来たのですからたまった物ではありません。
徽宗本人は北へ連行される際に目にした民の悲惨な様子に涙したと伝わっていますが、為政者として無能だった事は間違いないでしょう。その罪は重い物があります。
私たちが生きる現代日本が血統など能力以外で為政者が決まる時代ではない事につくづく感謝しています。
中国史に限ってもまだまだご紹介したい君主はた~くさん居ります。