Catch26 名君は民主主義の最後の敵
しばらく中国ネタが続きます
近代以前の歴史は様々な君主たちの歴史といっても過言ではありません。歴史や社会を動かしたり変えたりするのは君主とその周辺であり、政治の世界で「一般人」、市井の人がそうした機会に巡り会う事はありませんでした。
「名君」と聞いて思い付く人を挙げて貰うと、古代ローマの五賢帝やルイ14世などがよく出て来ます。日本史だと織田信長や徳川家康なんかが常連です。
私は前回書いた『カッコ良すぎる専制君主』で“名君の定義”のようなものとして「時代や社会の責任者として“優しさ”を持つ」「どうしたら人々が幸せに暮らせるかを考え、ある程度以上に成功した人」という物を提示しておきました。その定義を踏まえて古今東西の歴史を眺め回して見ると、名君No.1と言えそうなのは中国・清朝の康煕帝だろうと思います。
歴史教材の最大手、山川出版社の『世界史用語集』では「中国史上第一の名君」とハッキリ言い切っています。その事自体も凄いのですが、中国史上に限らず世界史上ナンバーワンだろうと。
康煕帝(在位1661~1722)は万里の長城の北側に起こった満洲 (女真=ジュルチン)族の清朝が、長城線を突破して中国全土を征服したばかりの頃に皇帝になりました。父親の順治帝が23歳の若さで崩御(死去)してわずか7歳で即位します。
実は順治帝は死んだのではなく、愛妃の死を嘆いて出家したのではないかという説が当時からあります。この件については中国歴史小説の巨人・陳舜臣さんが『五台山清凉寺』という極上の短編小説を書いています。
康煕帝が即位した当時の中国は満洲族の支配はまだ固まってはいませんでした。清が中国本土を征服するにあたっては、前王朝の明に仕えていた高級軍人を取り込んで満洲族の20倍以上の人口を持つ漢民族を効率よく撃破していったのですが、これが火種になっていたのです。やがて特権を与えられて半分独立国のようになっていたこれらの軍人たちが反乱を起こすのですが(三藩の乱)、康煕帝は中国本土の南半分を巻き込んだこの大反乱を苦労しながらも何とか鎮圧します。
朝は明け方から起き出して勉学・政務に励み、夜遅くまでそれを続け、おべっかを使う小人物に心を許す事もなく、各地で民衆を苦しめる政治を行う不心得者がいないように情報を集め、シベリアを東進して来たロシア帝国と初の対外条約を結ぶ交渉に当たり、贅沢もせず、征服された漢民族が不満を持たないように気を配り (宮廷料理も前菜からデザートまで満洲料理と漢族の中華料理を一品ずつ食べるようにしていました。これが「満漢全席」の起源です)、60年に渡って平和で豊かな世の中を人々にもたらしました。
これで最後に「イツモシヅカニワラッテイル」と付け加えれば宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』です。本当に人間だったんかいな? と只ただ感心するしかありません。
康煕帝と後継者の雍正帝、乾隆帝の在位年数は合計で130年以上に及びますが、その間中国はず~~~~っと経済成長が続きました。平和で順当に人口が増え続けた事に依る、経済学者の藻谷浩介さんが言う所の「人口ボーナス」が起こっていた訳です。
おじいちゃんの代からとあるお屋敷に仕えていてご主人様が「馬を引いて来い」と言えば「はぁい」と引っ張って来、「水汲んで来い」と言われれば「はぁい」と持って来る、そんな程度の身分の人間も、たまのお休みには近くの茶館に出掛けて月餅モグモグやりながらお芝居を楽しみ(当時の茶館では客寄せに人気の出し物を用意していました)、デートなんかしてやがて所帯を持ち、子どもも同じように大きくなれば「若様」に仕えていく、そんな安定感抜群の社会です。
面倒くさい「社会」がどうの「政治」がどうのという事は全部「偉い人」がやってくれる。そんな事考えたり勉強しなくても生きて行ける。こういう社会には「民主主義」なんて発想は起こりません。「偉い人」の言う事を何も考えずに聞いている方が楽なのですから。それで何も支障がない。
“名君は民主主義の最後の敵”なのです。
唯一最大の支障は「偉い人」も面倒くさくなっちゃって、社会の綻びに目を向けなくなった時に「歯止めが無い」という事だけです。「歯止めが無」くなった清朝の後半から中国を襲った社会的・対外的な歴史の不幸の数々は、今なお中国に甚大な傷痕を残しています。
やはり「特定少数」に政治を預けてしまうのは危険な事なのだと、「特定少数」が間違いを犯した時に被害を受けるのは市井に生きる自分たちなのだと、人類が歴史を進めて近代民主主義にたどり着くようになるのは康煕帝が世を去ってから60年ほど経った、遠くユーラシア大陸の反対側の外れにあるフランスに於いての事です。
言わずと知れたフランス大革命です