Catch25 カッコ良すぎる専制君主
ロシアについては司馬遼太郎氏にそのまま『ロシアについて』という題の著作がありますが。
前回『日露戦争の講和』で触れたロシア帝国はロマノフ家が皇帝として君臨する専制国家でした。1613年にミハエル=ロマノフによって創設され1917年に有名なロシア革命で断絶するまでロシアの主権はこの一族が担っていた訳です。しかし皇帝としての地位が安定し、支配体制が整ったのは大帝と呼ばれたピョートル1世(在位1682~1725)の時代からでした。
このピョートル大帝ですが、歴史上時々現れる“実は別の世界から来た高等生命体だったんじゃないか?”と思ってしまう様なカッコ良すぎる専制君主でした。見た目も男前です。帝政末期の皇帝たちは写真も残っていますが、ロマノフ家の方々はビジュアルに恵まれた人がとても多いですね。
古代ローマのカエサルや、次回掲載予定の『名君は民主主義の最後の敵』で触れる中国・清の康煕帝などと同じで、人間離れした努力と能力と実績を揃えていました。
“名君”に共通しているのは、「優しさ」でしょうか。
個人として優しいのではなく、時代や社会の責任者として優しいのです。“どうすれば人々が幸せに暮らせるか”を考え、運にも恵まれてある程度以上は成功した専制君主を「名君」というのかも知れません。
ピョートルはヨーロッパの辺境にある弱小後進国だったロシアを一躍大国に押し上げた功労者でした。皇帝とはいう物のモスクワ周辺を支配する一地方政権に過ぎなかったロマノフ家は、ロシア正教の保護者でもありビザンティン帝国(東ローマ帝国)由来の「ツァ-リ」を称していましたが、この古い称号が西ヨーロッパに於ける「カイザー(皇帝)」(語源はツァ-リと同じ)と同様の重みを持つようになるのは彼からです。
彼は9歳で即位しますが、だいぶ歳上の姉や少し頭が怪しい兄などを推す勢力も在り、実権を握るのは遅れました。モスクワ郊外に住み、儀式の時だけ宮廷に呼ばれる状態だったのですが、その間近くにあったオランダ人のコミュニティ(オランダは当時ヨーロッパ最大の商業ネットワークを持つ経済大国でした。モスクワにも商業拠点を持っていたのです。)に入り浸りロシアの後進性を認識するようになったと言われています。
大柄(彼は2メートル以上の長身でした)な美男子に成長したピョートルはトルコとの戦争に指揮官ではなく、なんと砲兵下士官として参加しています。怪力で銀製の皿をクルクルと筒型に丸める事が出来たというエピソードも伝わっています。
政治事情が変わりピョートルがいよいよ権力を握ると、最初にやったのは西欧の先進諸国に使節団を派遣し、技術の習得や外交交渉を行う事でした。ピョートルは偽名を使って紛れ込み、オランダの造船所や鍛冶屋で「見習工」として訓練しています。歯科医師の見習いもしたようで、後年、貴族たちは歯が痛くなっても必死で平気なふりをしなければならなくなりました。「歯が痛い」などと言おう物なら大喜びでピョートルが抜歯手術の道具(このオランダ訪問中に買い求めた最新器具)を持って現れるからです。
ロシアはヨーロッパの端にあるとは言え、長らくモンゴルに支配されていた事からやはり中央アジア的な、異質な要素を大量に含んだ社会です。その中には人権軽視にあたるような野蛮な物も多く残っていました。
ピョートルはロシア社会の“近代化”を目指したのです。社会が豊かになれば他人への寛容も生まれるだろうと、貴族に富が集中する貧しい農業主体の経済を工業中心の“近代的”経済に転換しようとしていたと思われます。
彼の国制改革が成果を見せたのは軍事面でした。彼の対外政策の二大ハードルはトルコとスウェーデンだったのですが、長らく対立して来たトルコと一応停戦した上で、ヨーロッパ諸国と共闘体勢をとって強敵・スウェーデンに挑みました。
今では想像するのも難しいのですが、当時のスウェーデンはバルト海全域を勢力下に置く大国でした。しかもスウェーデン軍を率いるのは軍事的才能に恵まれた若き国王カール12世、足かけ14年に渡る「大北方戦争」でピョートルはなんとかこの強敵を下してバルト海東岸を手に入れます。
そして手に入れたばかりの新領土にサンクト=ペテルブルグを建設して遷都します。この出来たばかりの首都の横に、トルコもスウェーデンも相手取り軍事的優位に立つには海軍の育成が不可欠と、クロンシュタット軍港を作り、はるか後に対馬海峡へ押し寄せる事になるバルチック艦隊を創設しました。
ピョートルは育成中の海軍の演習を視察中、海に転落した兵士を助ける為に真冬のバルト海に飛び込んで体調を崩し亡くなりました。
最期までカッコいい人です。何でそういう事が出来るのでしょう。こんな死に方をした国王・皇帝など聞いた事もありません。
最初の戦場に指揮官ではなく下士官として赴いた事でも分かりますが、彼の本質は基本的に「皇帝」というより「現場の兄貴」だったのでしょう。
ピョートルが死去した事で彼が追い求めた“どうすれば人々が幸せに暮らせるか”という問題は、遅れたロシア社会を近代化する途中で迷い道に入ってしまいます。ピョートルの目指した“近代化”は、ロマノフ家を核としてその後も紆余曲折、進んだり戻ったりして行きますが、結局社会の抱える歪みを解消出来ずに1917年の革命を迎えます。
次回は人類史上最高の統治者です。