Catch235 一向一揆
一向一揆ってもっと真剣に研究されていい題材だと思っています。
下克上とは字の通り「下が上に克つ」事です。封建時代には世の中の秩序を乱す悪い行いとされていました。
「日本には革命が社会的に合わない」「その証拠に(革命を肯定している思想書の)『孟子』を積んだ遣唐使船は日本に向かうと沈んだ」「日本の八百万の神が革命を嫌ったのだ」という珍説が有りますけれど、そんな訳が無いでしょう。話としては面白いんですが『孟子』はちゃんと日本にも輸入されています。
日本の歴史上、最初に起きた本格的な意味での下克上は室町時代に起きた「山城の国一揆」(1485)です。
元になったのは土一揆と呼ばれる運動でした。
中世日本では支配者の代替りがあると借金の帳消しを行う習慣が有りました。徳政と言います。今でいう恩赦みたいな感覚ですね。「徳政」という名前の通り、代替りした新しい政治の責任者が民衆に恩恵 (徳のある政治)を与えて支持を受けやすくする方法です。
将軍の代替りで徳政令が出ると期待していた借金まみれの人たちが、いつまでも借金帳消し命令を出す気配の無い幕府にブチ切れて「さっさと出せやオラァ!」と暴動を起こしたのが最初の土一揆と言われる「正長の土一揆」(1428)です。この時は克つ事は出来ずに鎮圧されてしまいましたが、以後似たような「特定の要求を掲げた民衆暴動」は各地で起こり始めました。
その中で初めて支配者に「克ってしまった」のが「山城の国一揆」だった訳です。「山城の国一揆」は京都を中心に延々と戦を続ける支配者に、地元の武士や農民 (ほぼ似たような物ですが)たちが「もうアンタらの命令には従わない、俺たちの話し合いでこの辺りの事は決めるからヨロシク」と支配者にNOを突きつけた物でした。この「地元民の代表による合議制」は8年続いたと言います。
一国の支配・行政権を貴族でも上級武士である守護大名でもない、全く法的権利の無い被支配者が実力で手に入れ運用した事、それが幕府のお膝元たる山城国 (現在の京都府南部)で起きた事は支配層に衝撃を与えました。「これ下克上の初めなり」と当時のお坊さんも書き残しています。
戦国時代中期に起こった一向一揆は「本来の意味での下克上」として最も規模の大きな動きでした。
細かい経緯は省きますが、要は一向宗と呼ばれた浄土真宗本願寺派の信徒たちが加賀国 (今の石川県南部)の守護・富樫家を一揆で滅ぼし、その後織田信長が攻め込んで来るまで100年に渡って大名の支配を拒んだ物です。戦国時代のシュミレーションゲームなどでもお馴染みですね。
加賀の一向一揆は実際の政治を地元の武士や農民の代表と本願寺の僧侶が話し合いで決めていたようです。
なぜこのような事が起きたかというと、一言で言えば「支配者の統治能力が低下していたから」です。
中世末期には朝廷が任命した国司なり幕府が任命した守護なり、法的根拠を持つ為政者が、現地に暮らす人々の面倒をロクに見ず税 (年貢)をむしり取るだけの厄介者に成り果てていました。歴史学者によっては「中世に国家と呼べるような支配体制は無かった」=中世無国家論を唱える人もいるくらいです。
大体はその下で実務を行う守護代たちが代わりに面倒を見てやがて戦国大名に成長して行きますが、かつて本願寺中興の祖・蓮如上人が布教活動をしていた加賀国では「一向宗」という横の繋がりが育っていました。
下級武士や農民たちは「同じ教えを信じる仲間」として本願寺の教線を通じて他の地域では起こり得ない村や荘園の境を越えたネットワークを持つようになったのです。
富樫家を滅ぼした「高尾城の戦い」では北陸全土から20万人と言われる一向門徒が押し寄せ、城を陥落させました。有名な応仁の乱で日本中から京都に集まった軍勢が20万人くらいだったと推定されていますので、こうなってしまうと加賀一国の守護でしかない富樫政親に勝ち目はありません。本願寺の僧侶など実務を行う知識を持っていた者が一揆側にいた為に、支配者を倒すだけでなくその後の領土の経営も行う事が出来たのです。
日本で民衆が支配者に反抗するだけでなく倒して支配権を手にし、それを長期間維持した例は他には見当たりません。戦国時代によく見られる下克上は「謀叛で殿様が家臣に殺された」といった類いの「支配層内部での争い」ばかりです。最大の下克上・一向一揆は未熟な部分はある物の日本史上初めての“革命運動”だったと言えます。
日本では革命は受け入れられない?
そんな事はありません。支配体制が強まった徳川時代にも芽なんていくらでも有りました。