Catch226 フラテルニテ
『Catch6 エガリテ』の続きと言えば続きです。
フランス革命の標語というか新たな社会の理念を表した「自由」「平等」「同志愛」。この内最後のフラテルニテだけがヘンテコな日本語訳をされ続けていました。わざとなんですかねぇ?
第二次世界大戦後、鳩山一郎・鳩山由紀夫と二人の総理大臣を出した保守政治の名門・鳩山家で、家訓のように代々の当主が口にしてきた政治姿勢の心構えが「友愛」でした。この「友愛」がフラテルニテに他なりません。
革命理念のフラテルニテは「革命を起こし革命政権を守ろうとする同志たちの間に生まれる助け合いの精神」であって、これを「友愛」としてしまうと説明の前半部分をバッサリ切り捨てていて、正確な訳語とはとても言えないのですが。
もっとひどいのは「博愛」などとやっている例で、これはもう不正確な訳語ではなく明らかに「誤訳」レベルです。誰もが対象になる博愛と特定の条件を満たした仲間だけに向ける同志愛では全然違う物だからです。日本の保守層が少しでも革命色を薄めようと珍妙な言葉をあてがったのでしょうか。
ところでフランス革命の成り行きは人間の政治行動の典型を幾つも見せています。革命の中心になった「ジャコバン派」を見ていくととても興味深い。
革命前夜、三部会が召集される頃は反王室で一致した王政派以外の全ての集団が連合した物でしたが、反王室派貴族がまず脱落し、次に王家から政治の主導権を奪いはする物の処刑までは考えていなかった穏健派市民層 (フイヤン派・ジロンド派)が離れ、最後に「国王は国王であった事自体が本来市民の物であるはずの主権を不当に横取りしていた犯罪行為なのだ」とする山岳派が恐怖政治に走りました。
有名なロベスピエールやサンジュストはここに入ります。国王や王妃を処刑するのはまぁ革命の本来の姿に近いかも知れませんが、一緒に革命を起こした他のグループを「反革命だ!」と片っ端から逮捕→処刑って明らかに暴走です。
同志愛も何もあったもんじゃない。分派と呼ばれる些細な違いからの対立・分裂は、近代政治で以後際限無く繰り返されます。
「別個に進み、共に打て」と唱えたのはロシア革命の立役者だったレオン=トロツキーでした。日本の学園闘争の先駆けとなった日大闘争をリードした日大全共闘の主導者・秋田明大氏が残した言葉の中にも「理論の分裂、行動の一致」と同様の主旨の物があります。
内部に取っては大事かも知れない“違い”なんて、そのグループに入っていない人から見ればどうでもいい事なのですから。
政治運動とは数学です。数=力を集めた者が主導権を握る以上、違いを気にするのではなく、違いを跨いだ「フラテルニテ」を持つ事が出来た集団が勝ち残るのだろうと思います。
マルクスが提唱した「労働者階級の世界的な連帯」も同志愛があってこそ。「人類社会の労働者全て」に呼び掛けた団結は多少の違いはあっても「労働者階級という共通点」を持っています。
違いを乗り越えフラテルニテで協力・合流が出来て初めて多数派と成り時代を進める運動に育つのですから。
インターナショナル(国際労働組合)も何度も出来てはバラけています。少し「連帯」の意識が薄れているように感じます。