Catch214 農民の政権
誰かが書いておりましたが「百姓」っていつから差別用語扱いされるようになったんでしょう。
小身から身を起こして天下を取った人はどこの国の歴史を見渡してもある程度いる物です。日本だと豊臣秀吉が有名ですね。
中国では漢の高祖・劉邦、明の太祖・朱元璋が下層階級から皇帝になりました。インドならマウルヤ朝を開いたチャンドラグプタがシュードラ(基本4カーストで最下層)の出身でしたし、ギリシアでは東ローマ帝国の「大帝」ユスティニアヌスが農民出身でした。ちなみにこの人の奥さまテオドラ皇后も貧しい踊り子だったと言われ、夫婦そろって下克上を果たした事になります。
まぁ、社会が揺らぎ、今までの秩序が力を失った時代に、才能と意志と運に恵まれて頂点に登り詰めた人たちですね。
彼ら彼女たちほど下層階級ではありませんでしたが徳川家康と毛沢東も文化の中心から離れた田舎の出で、大して豊かでもない家だったり色々問題を抱えた立場だったり、決して恵まれた状況で出発した訳ではありませんでした。この二人は政治家として何となく似ています。「農民の政権」とでも表現すればしっくりくるでしょうか。
他にも毛と似ているのは先ほど例に挙げた朱元璋でしょう。どちらも天下を取った後、大衆の教化に力を注ぎましたし、行政手続きや文字を簡素化して大衆も支配する側、つまり体制側に加わり安くしています。
明はそれまでの面倒で分かりにくく作成に膨大な教養が要る役人の文書を有名な八股文という少しコツを覚えれば誰でも書ける簡単な物に変えました。
毛は簡体字を開発させ、やはり膨大な学習時間と記憶力を必要とする旧字体の漢字を思いっきり画数を減らした簡単な物に変えています。
一方の徳川家康は三河の田舎根性とでも言うか、せっかく天下を取ったのにエラく地味で詰まらない国造りをしたように思います。
人間の行動範囲が地球儀レベルに広がっていた大航海時代に鎖国して引きこもる。
江戸を守る為に主要街道に橋を掛けず甲板のある遠洋航海が可能な船を造る事も持つ事も禁止。
家康が街道や港を整備して陸上海上で移動を簡単にし、経済を発展させるとか軍勢の素早い展開で国防力を高めるなどは考えなかったと思えません。家康はそうしたメリットよりも「江戸に攻め込まれる」デメリットを重くみて対策を取ったのでしょう。
しかし、ですよ。
甲板を備えた外洋船を持つ事を諸大名に禁止するのは仕方ないとして、徳川家も甲板仕様の外洋船を持たないとはどういう事でしょうか。幕末にペリー提督がやったように江戸湾にエゲレスやエスパニヤの軍艦が押し寄せたらどうする気だったのでしょう。必死に島国に立て籠り「来るな~、帰れ~」と言っていれば敵はやって来ないとでも思っていたのでしょうか。
色々問題があったにせよ徳川家康の前に政権を担った豊臣秀吉はこうした「田舎根性」のような物は見せていません。
目標の遥か手前でコケたのでどこまで本気だったのか分かりませんが、悪名高い朝鮮侵略は最終的に朝鮮どころか明も征服しインド辺りまで行く積もりと言っておりました。
先にスペインに取られてしまいましたが、フィリピンを領有しようと考えていた時期もあります。
大陸方面のインド侵攻がどういうルートを取る積もりだったのか不明ですが、もしかしたら既に日本人町が出来ていた東南アジアを沿岸伝いに進む事を思い描いていた可能性があります。秀吉は「朱印船貿易」をこの方面に展開していました。
豊臣政権は国内の金銀鉱山を押さえただけでなく、アジアやヨーロッパと商取引をして途轍もない富を蓄えていたのです。
後に家康が大坂の陣で豊臣家を滅ぼした時、冬夏合わせて15万人近い浪人を集め武具を与え飯を食わせ支度金を出してのけた桁違いの資金力は、こうした地球儀レベルの商いによって積み上げられた物でした。
徳川家康や毛沢東にはこうした「外を使った金儲け」の気配がありません。秀吉よりも年下である事が自分のアドバンテージと認識して摂生を心がけていた家康は天下人になったのが晩年だった事もあって為政者として失敗らしい失敗はしていませんが、毛は酷い物でした。
「大躍進政策」で鉄と食料の増産に失敗しただけでなく農業を滅茶苦茶にしたせいで多くの人が餓死に追い込まれ、その責任を取る形で失脚したのを逆恨みして「文化大革命」を起こし人民中国を内乱状態に叩き込みます。
「文革」で実動部隊になったのはロクに社会経験もなく人格形成も出来ていない青年・少年たちでした。「封建的」な考え方や物は否定され、宗教に関するものや富裕層の邸宅、貴重な文化財などが破壊され、毛がボロボロにした食料生産力と工業力を回復させていた劉少奇や鄧小平を「資本主義的だ」と吊し上げて失脚に追い込みます。
かつて国共内戦に勝ち、北京を占領した際に「歴史に敬意を表して伝統的な地名や大通りの名前は革命家や主義の価値観を示す物には変えるべきではない」と論文を発表した毛沢東でしたが、物知らずと老害を無惨なまでに晒して晩節を汚しました。
思うに農民や農村地帯の為政者は「農業共同体」の構成員で、家康のような大名でさえ「共同体」を治めて外敵から「共同体」を守る役割を任された一員でしかありません。戦になれば農民たちも武装して加わる軍勢を率いて戦う「おらが殿様」です。
そして農民は生産と生活が開墾した農地、地面に依存しており、その作業は村落単位の集団で行います。こうした暮らしを自分も周りも送っている中で「遠くへ出かけて交易をして金を稼ぎ、暮らしに要る物を買う」という金が中心の人生など想像の彼方でしょう。
自然と地面が中心の人生になり、よそへの関心が低くなりがちな訳です。「作る人」というのは良い悪いでなくそういう傾向にあると思います。
家康と毛は天下を取った後も国の外へ関心を持たない「農民の政権」だったと思うのです。
軽く触れたチャンドラグプタやユスティニアヌス、文革などはまた別項で書きます。