Catch201 貧乏物語 番外編
貧乏物語1~5のどこかでタイトルの説明をする積もりでいたのですが、入れ損ねてしまったので。
お気づきの方も多いと思いますが、先日投稿した「貧乏物語 その1~5」は帝国憲法時代の経済学者・河上肇博士のベストセラー小説からタイトルを借りた物です。勿論借りたのはタイトルだけです。経済格差がなぜ生まれるのかを解説している点は共通していますけど。
練馬に拠点を置く劇団の東京芸術座が正に『貧乏物語』というタイトルの舞台を上演した事があります。
東京芸術座の『貧乏物語』は川上博士の著書を舞台にした物ではなく、共産主義思想を理由に大学教授の座を逐われて逼塞していた河上肇の下にベストセラー『貧乏物語』を書いた「エライ先生」なら助けてくれると思い込んだ生活に困窮した人たちが次々転がり込んで来て巻き起こる喜劇でした。
私が帝国時代の社会の仕組みが色々と整合性のある時代だったと感じるのはこんな雰囲気も理由になっています。例え共産主義者のレッテルを張られようと国が整えた仕組みの中で「博士」や「大学教授」といった“一廉の出世”を成し遂げた人は尊敬と庇護を願う対象になる存在でした。
これは「大臣」や「爵位を持つ貴族」、「将官まで出世した軍人」なども同じ事です。社会制度の中で「エライ」とされた存在にそれなりの信頼性がありました。政治・司法・軍事・階級・教育それぞれが連動して富国強兵をしようとする仕組みです。
惜しむらくは仕組みを整え過ぎ「完成」させてしまった為に、格差やジェンダーなどの問題に対応出来るような「遊び」が無かった事でしょうか。不都合が起きた時に制度を変える柔軟さを持ち合わせていなかったのです。
前回その文筆活動の分析を紹介した司馬遼太郎氏ですが司馬氏が生まれ育ち信用していた「明治体制」はそうした「整合性を持つ社会」だった筈でした。
『資本論』がマンガ化されているのを書店で見掛けて驚いた事があります。古今の名著をマンガ化するシリーズの1冊としてでしたが、小説ならともかく『資本論』って理論書・学術書ですからね。どうやってマンガにしたのか気になりました。
マンガの『資本論』は理論の解説ではなく格差の拡大と貧困化を産業革命期のイギリスを舞台に取った具体的な物語で分かりやすく提示して見せ、資本論のエッセンスをマルクスやエンゲルスを「解説者」として登場させて補う手法を取っていました。
分かりやすい具体例を架空の物語として描き、格差と貧困が生まれる過程を説明する手法は川上博士の『貧乏物語』と同じです。
司馬遼太郎氏が文筆活動のごく初期に発表したエッセイ『歴史と視点』には旧陸軍で氏が信じていた「もっと重厚な思考装置で運営されている」と思っていた国家とその一部門である軍が、非合理的な精神論にすっかり塗り替えられているのを目の当たりにして愕然とするエピソードが収録されています(「石鳥居の垢」)。
アメリカ軍の日本本土上陸作戦に備えて神奈川の沿岸部で上陸部隊を阻止できるか、ぬかるんだ深田を堀や川などと同様の防御ラインに設定出来るかどうかの検証を行って失敗する話でした。
歴史学者の宮崎市定博士などもそうでしたが、司馬氏も共産主義や労働価値説に一定の理解を示しつつも、それを国の方針にしている(事になっている)ロシアという国に対しては『菜の花の沖』のゴローニン事件以来の不信感・警戒感を戦後も濃厚に維持していました。
まぁどさくさに紛れて不可侵条約を破り樺太・千島といった北方領土を占領する不誠実さを見れば信用のしようもありませんが。
実はそんな信用出来ない国々を相手に東西冷戦下でも交流をしようとしていた時期があったのですが、それはまた次回。
環日本海経済圏構想と言います。