Catch200 司馬遼太郎の文学
歴史と歴史小説は違う物。客観と主観の違いですね。
「どうして昭和はこうなった」これが小説家・司馬遼太郎氏の創作意欲の源 (の1つ)になっていたように思います。
歴史小説家として文筆活動を始めた氏は直木賞を受賞した『梟の城』や大河ドラマ化された『国盗り物語』などの戦国時代を扱った作品や『竜馬が行く』『燃えよ剣』『峠』『花神』など幕末に題材を取った物、『項羽と劉邦』『韃靼疾風録』のように中国史を描いた物などを次々発表して行きました。
今では無意味なジャンル分けですが、芥川賞の対象となる「純文学」と直木賞が押さえる「大衆小説」の間に両方の特徴を併せ持つ「中間小説」という枠組みが設定されており、司馬氏や井上靖氏、松本清張氏などがこの方面での代表的な作家と見なされていました。特に司馬氏と松本氏は長くベストセラーを争う時期が続き「松本司馬王朝」などと評されていました。
その司馬氏が明治憲法時代の近代化を描いた『坂の上の雲』を発表したのは1968年 (完結は1972年)の事です。幕末から明治維新を経た日本がその後どうなったのかを、維新の年に生まれた海軍軍人・秋山真之を主人公の1人に据え、真之の実兄で陸軍の軍人となった好古や真之らの幼なじみで俳人の正岡子規らを中心に日露戦争までを描きました。
その際に浮かんだ「この“成功”の土台となった要素はなんだろう」という疑問から鎖国時代の日本人の行動と精神の在り方を探ったのが、幕末直前に北海道や千島列島に事業進出してゴローニン事件※に巻き込まれた商人を通して日露関係を眺めた『菜の花の沖』だったように思うのです。明治に至る日本の軌跡の追究とも言えます。
以前書いたように第二次世界大戦で旧陸軍の戦車部隊に士官として従軍した司馬氏は、昭和の陸軍が少年期に読み聞きしてイメージしていた(日露戦争などの)成功を重ねた“勝てる軍隊”とは掛け離れた「非科学的」「非合理的」な組織と成り果てている事に愕然としたようです。
有名な『街道を行く』のほかにも『歴史と視点』や『この国のかたち』など数多くのエッセイを記した司馬氏はたまにこうした“小説以外”の文章でこの時の幻滅と疑問に触れています。
突き詰めて言えば「どうして昭和はこうなった」という事です。『坂の上の雲』の執筆の動機も、この疑問があったからでしょう。
日露戦争後の日本は氏に取って生々し過ぎたのか、或いは本人も整理が十分に付かず作品化出来なかったのか、その後長編小説の題材として取り上げる事はありませんでした。
『竜馬』(1963~66)『坂の上』(1968~72)『菜の花の沖』(1982)という執筆順です。『竜馬』で幕末を書き『坂の上』で明治前半を、『菜の花』で開国直前の「長く鎖国していた日本が外国と向き合い始めた頃」を扱いました。
60年代の2つが時代をベースにした青春群像だった事を考えると、この時期の司馬氏は戦争によって不完全燃焼になった自身の青春を取り戻そうとしているようにも思えます。
『坂の上の雲』はそもそも前提が近代日本の成長・成功の物語として描かれた作品なので、領土の拡大と侵略に伴う「閔妃事件」のような暗部には触れません。歴史と歴史小説は違う物だからです。
司馬氏が世に出した作品は共通の重い経験として戦争を知る氏に近い世代に熱烈に受け入れられました。それこそ歴史好きや同世代の読者に史実と錯覚させるくらい「ハマった」訳です。
それを批判する“進歩的”な歴史学者もおりますが、小説に学術書と同じ役割を負わせるのは見当違いな批判だと思っています。
※ゴローニン事件:1811年に千島列島を測量中のロシア海軍軍人が南部藩の沿岸警備部隊に捕えられた国際紛争事件
今考え付いたのですが、司馬遼太郎氏が作品として「坂から転がり落ちていった」明治憲法時代後半をや現代を扱わなかったのは、ライバル・松本清張氏がこの時期や戦後の権力犯罪・疑獄事件を精力的に書いていたからかも知れません。