Catch183 貧乏物語 その1
今回から何で日本は貧しくなっちゃったの?を書きます。全4回を予定しています。初回は大前提としての理論回なのでもうご存じの方は読み飛ばして下さいませ。
餅は餅屋。以前知り合いのある経済学者に「今の経済学」を聞いてそう思った事がありました。
90年代半ばに私がかつて在籍した大学も含めて公立私立問わず各大学の経済学部でマルクス経済学の講座が次々と閉鎖されていた頃の事です。何でそんな事になるのか全く分かりませんでした。高田馬場のスナックでたまたま知り合いの経済学の教授が飲みにいらしておりまして、何故そうなるのか伺ってみたのです。
社会主義を自称していた東側諸国の体制が崩壊し、ご本尊のソヴェート=ロシアまで“民主化”と銘打つ反革命で70年以上続いた革命政権が消滅。「資本主義が勝利した、これからは自由経済と民主主義の時代だ」とお花畑のような妄言が語られていたのと関係があるのか無いのかすらよく分かっていませんでした。
彼女が例にあげたのは原発でした。原発が必要かどうか、原発に頼らない電力供給は無いのかを考えるより「原発を作って動かすのに幾らいくら掛かる。そしてそこから生み出す電力を幾らで売ればどれだけの利益が出る」という目先の事しか考えない、教えない。
それで経済学と言えるのか、と驚愕する私に「今学生が就職先に求められているのは哲学や広範囲の視野を持って原理を探求する“経済学”ではなく利益を効率よく追求する“経営学”なのよ」と教えてくれたのです。安直なのは承知の上で思ってしまいました。やはり専門的な事は現役のプロに訊くのが一番手っ取り早い物だと。
19世紀のドイツに生まれ、フランス・イギリスと列強と呼ばれる国を転々としながら『資本論』を書き上げた革命家マルクス。『資本論』はマルクスが貧困とは何か格差・身分差はなぜ生まれるのかを究明し、哲学・歴史学・経済学の3つを柱にしてたどり着いた理論です。哲学は唯物論を採用し、歴史学はその世界観を元に「唯物史観」と呼ばれる自然科学的な考察で人類の歩みを振り返った物。そして経済学は労働価値説と言われる物を編み出しました。いわゆる「マルクス経済学 (マル経)」です。
労働価値説とは大雑把に言えば「自然物自体に経済価値は無い。人間が自然物を自分達に利益をもたらす物に変える手間を掛ける(=労働する)事で価値が生み出される」という考え方です。そりゃそうですよね。
お米だってただ草として生えているだけでは何も価値はありません。まとめて収穫しやすいように田を整え苗を育て、水を引いた水田に一定間隔で植え替え、実った米を収穫し脱穀や精米などの作業の末に漸く炊いて食べられる状態になるのですから。ここで「草→ご飯」の間に入る「人間に取って利益になる物に変える手間ひま(=労働)」こそあらゆる物の価値の源なのです。
自然物に労働を加えて生み出される価値が様々な形に姿を変えながら世に拡散して行きますが、大本は第一次産業で発生し、蓄積される富である、と。
以前『Catch33 団結せよ』で書いたことですが、マルクスはただ格差が生ずる過程を証明しただけでなく、その弊害の解消の為には「搾取される側(階級)が団結し世の中をより良い方向へ意識的に変えるべし」、革命へ至る道を示してのけました。事象を分析するだけでなく、理性に基づく運動で人類史を積極的に前進させろ、と壮大なアジテートをしたのです。
日本の各大学で起きたマルクス経済学 (マル経)単位の消滅は言ってみれば「1+1=2」レベルの基礎を「別に知らなくてもいいや」と学問が軽んじたという事です。利益率がどうの効率がどうのという以前に「富はどこから生まれるのか」を認識しないでどうするのですか。
ここまでが大前提です。