Catch173 象徴
謹賀新年。
2024年1月1日に能登半島で震度7の大きな地震がありました。
私の出身地 (どうでもいいことですが昨年 (2023)バスケットボールワールドカップで改めて注目された富樫勇樹選手の出身地でもあります)新潟県新発田市も大いに揺れたようで。私自身はここ高田馬場にいて長くしつこい揺れを感じましたので「あ、どこか遠くでかなり大きな地震があったんだろうな」と思いました。
幸い程なく新潟の関係者・友人たちの無事を確認しまして一安心している所です。しかしですねー、選りに選って1年の始まり、元日にこんな災害が起こるとせっかくの「ケ=日常」を離れて浮かれる「ハレ=お祭り/非日常」の体勢に入っていた日本中が一気に「ケ」に引き戻されてしまいシラケた気分になってしまいます。
お正月気分を盛り上げるべく用意していたテレビ番組も軒並み差し替えで地震報道一色です。こんな現実感あふれる元旦は記憶にありません。
『Catch32 黄河』でも紹介しましたが、中華文明とその影響下にあった東洋世界では「天災が起こるのは地上の責任者たる皇帝 (現代日本では総理大臣かな?)の行いや心構えが悪かったからだ」という考え方がありました。人智の及ばない災害はそうかも知れませんが、起こってしまった災厄の被害をいかに小さく抑え込むかは人の知恵の絞り所でしょう。事後処理も含めて「災害は地上の責任者の器量を量る」という考え方はそれほど的はずれでもない様な気がします。
2001年の元日に新聞の1面トップに報じられたニュースが世田谷一家殺害事件でした。21世紀最初の報道がこれかよとげんなりした物です。全く合理的な思考ではありませんが「21世紀もロクでもない100年になるんじゃないか」と思ってしまいました。
「為政者の立ち居振舞い次第で天災が起こったり防げたりする」という観念とおなじ、「象徴」ですね。
地震がいつどのタイミングで起こるかと政治の責任者のモラルなど本来無関係です。そして地震発生がたまたま人の都合で「新しい年の始まりの日」とされる日であってもたまたま偶然に過ぎません。ですが、それを先行きの象徴として捉えてしまう、その裏側には「あの時こうしてくれる皇帝だったら」「こういう救援体制を整えてくれる首相だったら」といった“漠然とした想い”がある様な気がします。
少なくとも公私混同を繰り返した総理大臣の息子が実務に大きな権限と責任を持つ秘書官などを勤めていなくて良かったなぁと思う程度には。
表に出せない裏金をかき集めていた国士気取りの国会議員の先生方、こうした時にそろいもそろって全く役に立っていません。