Catch170 西洋への憧れ
観光客であふれる高田馬場や大久保とは違い、目白・下落合の界隈は落ち着いた雰囲気の街です。
帝国憲法時代は「欧米に学ぶ時代」でした。文明の辺境・日本は遣隋使の時代から“先進国”に学ぶ事で効率よく技術や制度を向上させてきた国です。長らく東洋世界の中心だった中国がアヘン戦争で負けてヨーロッパの国々にいいようにやられているらしいと聞いた我々のご先祖さまは学ぶ相手を中国から西洋に切り換えました。初めは余りに双方の差がありすぎた為に“接ぎ木”の様なヘンテコ現象も起こりましたけど。『鹿鳴館』とかね。
私の生活圏である新宿区下落合には教会が多くあります。それどころか聖職者を養成する学校まであります。こんな所にそれぞれの教会がやっていくだけの信者がいるのかなと不思議に思っていたのですが、例の「西洋に追い付こう時代」にお高い給料を払って招いたいわゆる『お雇い外人』、欧米のアドバイザーたちがある程度まとまって住んでいたためのようです。
教会は通う外国人たちの出身地に合わせてカトリックもプロテスタントも両方そろっています。こうした「ご近所の西洋」に対する憧れのような感覚はクリスマスやステンドグラスなど、あるいは讃美歌などの教会音楽や西洋に倣ったハイカラな教育機関によって私たちの中に漠然と育まれていったのではないでしょうか。週刊新潮の表紙を長らく担当した谷内六郎さんの作品にもこうしたささやかな憧れを表した物がいくつかあります。
「日本人はなぜ歌のサビで英語の歌詞を使うのか?」という問いがどこか余所の国の知識人から呈された事がありました。90年代の初めくらいだったかと思います。
単純に「カッコいいから」でしょう。より正確に言えば「カッコいいと感じてもらえるから」ですね。本来なら“ウチはウチ、よそはよそ”で外国語が「カッコいい」とイコールにはならないはずなんですが、なぜ外国語、それも特に英語がロックやポップスのサビに「カッコよさ」を出すために使われるのか。
帝国憲法時代に下地が出来て第二次世界大戦の敗戦で決定的になった「日本は欧米より遅れている」「進んでいる欧米の物はカッコいい」と感じる感覚があるからだと考えると説明がつくと思うのです。
“小説の神様”こと志賀直哉が「これからは日本の公用語はフランス語にした方がいい」と意味不明の提言をしたのは敗戦からそれほど時間が経っていない頃でした。当時は“ベテラン小説家の世迷い言”と呆れられただけでしたが、これ戦勝国たるアメリカに文化的にも従属しつつある現在から振り返るとなかなかに含蓄のある提言です。
山田風太郎さんの『戦中派不戦日記』という作品に、戦時中医学生として過ごしていた山田氏が日本の敗戦・降伏を疎開先の長野の山奥で聞いて「これからは我々が学んだドイツ医学がアメリカの医学に取って代わられるのだろうな」と予想している部分があります。知識人がそう感じる未来予想があるなら志賀直哉の“妄言”は経済・政治・軍事の各分野のみならず文化や医学、もっと言えばそれらを育む教育制度さえアメリカ流に書き換えられてしまう未来と、その未来が現実の物になる前に文明の軸の一つとして「英語圏」に対抗している「フランス語」を取り入れて対抗軸にしまえと主張しているようにも取れるのです。
「戦争には負けたかも知れんがそう簡単に日本を支配下におけると思うなよ」という事ですね。まぁ実際は自分が生まれ育った「帝国憲法体制」が崩壊するのを目の当たりにしたインテリ志賀の錯乱だったんでしょうけど。
私の世代 (高度成長期生まれ)などでは考えられない事ですが、今や“(日本人の)祖父が英語を話す”なんて珍しくない時代となりました。仕事で付き合いのある、業務レベルで英語のやり取りが出来る知人にもお孫さんがいます。
高度成長期世代なんて祖父・祖母は明治大正生まれ、バリバリ帝国憲法時代の教育を受けた人たちです。ごく一部のエリートでも進む分野によって学ぶ言葉は違いましたから「外国語を学ぶ」といっても英語を身に付けるとは限らなかったのです。
芸術で渡欧する/した人はフランス語やイタリア語、医学なら先ほども触れたようにドイツ語。外交官ならばそれぞれの任地の言葉。僧侶だった私の祖父は大学の一般教養で選択したのかドイツ語に通じていました。医者でも志していたんですかね?敗戦後の海外渡航が制限されている時期にインドに行っていましたので、もしかしたらヒンディー語もできたかも知れません。
それに比べて教育が普及した戦後はとにかく英語 (それもアメリカンイングリッシュ)が飛び抜けている感じ。アメリカ一択です。クリスマスやバレンタインデーなどの“古参欧米イベント”に混じってハロウィンまで定着しつつある現在。“ヨーロッパ文明への憧れ”というより国レベルでアメリカにレイプされているような気持ち悪さを感じます。
「ウチはウチ、よそはよそ」を原則に「良いものは採り入れる」でより暮らしやすく文明的な社会を作る事が本来の“日本らしさ”だと思うのです。
古参イベントにはまだ日本風のアレンジが見て取れますが、ハロウィンは翻訳に失敗した無様さしか感じません。