Catch158 視覚からの衝撃
天台宗の総本山である延暦寺には何度か行っていますが、ごく最近になって気がついた事がありました。京都市内各所からは勿論ですが、比叡山は関西地方のかなりな広範囲から見えるという事です。
初めて入山した時には根本中堂や大講堂など名だたる歴史建造物を拝観し、ただ「でかいなぁ」「これが信長に焼かれたのか」などと感心していただけでした。もちろん展望エリアに「晴れれば大阪城が見えます」だの「琵琶湖大橋」「彦根」だのと案内板が立っていましたので随分遠くまで見晴らせる事は分かりました。しかし「比叡山から見えるという事は比叡山もそれだけ遠くからも見られているという事」に最近ようやく気がついた訳です。
山頂近くに点在する巨大な堂宇が焼き払われる炎は、麓の京都盆地や滋賀県西南部は当然として、琵琶湖の北端やその北の福井県との境の峠からも、大阪 (焼き討ち当時は“大坂”)や堺からも、奈良県中部の山地にある寺社、例えば吉野 (金峯山寺)などからも見えた事になります。特に夜になれば更に遠方からも煙や炎は見えたはずで、その視覚的衝撃と恐怖は9.11同時多発テロの時に旅客機が突入・衝突して炎上するニューヨークの世界貿易センターの中継映像に匹敵する物だった事でしょう。
今に比べればはるかに劣るとはいえ、戦国時代にも物流・人流はちゃんとありました。近畿地方のど真ん中にある比叡山のてっぺんで、500年に渡って国家宗教のトップにあった延暦寺が焼き払われている衝撃的な光景は、それを実際に目にした多くの人々が繋がりを持つ地方の人たちに手紙や口伝えで知らせた訳です。そりゃもう大騒ぎになりますわな。
中世を通じて3000前後の僧兵を抱え、京都の“喉元”とも言える大動脈・東海道が一番くびれる山科口を押さえた比叡山は、宗教的な権威と実力部隊の両方を使って近隣の武装勢力を寄せ付けない存在として日本の中央に君臨していたのです。
近年の研究では織田信長は従来イメージされているほど“革新的”ではないという見解が主流になりつつある様ですが、延暦寺を武力でもって正面から撃破し「自分に従わない者・妨げる者は何者でも滅ぼしてやる」という激しい意志をこれ以上無い形で広範囲に見せつけた信長は、やはり政治家としても武将としても時代を変える大きなエネルギーを持っていたのだと思います。