Catch140 鬼の話
笑鬼だけに「鬼」にはこだわりがあります。
日本語の「鬼」と中国語の「鬼」はかなり違う物です。
『某野望』系シュミレーションゲームや戦国時代に詳しい歴史ファンには有名な「鬼島津」こと島津義弘。「島津の2番目」とか「鬼の人」とか符牒めいた言われ方もしますが、二つ名の通り俗に言う「島津四兄弟」の次男坊で、父・島津貴久が隠居して兄・義久が当主となると弟たちと共に長兄を支え、島津家の全盛期を作り出しました。
生涯に渡って勇名を轟かせた彼の一世一代の「見せ場」は、関ヶ原の戦いで「島津の退き口」と呼ばれた壮絶な退却戦を行った事でしょう。有名な小早川秀秋の寝返りで主力が総崩れになり、戦場に残るのは徳川方10万と陣地に籠り防戦に徹していた島津勢300騎 (騎兵300と馬廻りの歩兵1000~1200ほど)となった時に、突如陣地から討って出て「前方へ向かって退却」を始めたのです。
不意を突かれた徳川方は死に物狂いで前方へ進む薩摩勢に次々と陣を破られ、義弘隊はついに家康の本隊の横をかすめて関ヶ原の東側に抜けて本来の意味での退却戦に移ります。「捨て奸」と呼ばれる足止め隊を次々と残してひたすら義弘を逃がす事に努めた薩摩軍は、追撃を振り切って伊勢から薩摩へ帰還を果たしました。
正しく「鬼」に相応しい奮戦ぶりです。秀吉の朝鮮出兵では2度とも渡海し、寡兵で朝鮮や明の大軍を何度も破っています。そのため現地でも「鬼石曼子」=「鬼島津」と呼ばれた、と日本側には伝わっています。誰かがこしらえた“伝説”でしょう。何故なら「石曼子」を「シーマンツ」と読むのは中国語ですが、中国語の「鬼」に日本で言う「鬼」、英語で「beast」のような「恐ろしい外見と力を持つ怪物」と言った意味は無いからです。たぶん漢文に長けた日本の誰かが朝鮮・中国側にも義弘公は恐れられたと言いたくて「やっちまった」のではないかなぁ。
では中国語 (漢語)での「鬼」は何かと言うと、日本語では「幽霊」になります。この世の物ではない怖い存在ですが、暴力じみたものは持ちません。特に恨みを残して死んだ人間の魂が現世にとどまり現れる状態ですが、日本の幽霊のように人の姿をしているとも限りません。故人に縁の有る物 (宝石や文具など)の形を取る事も有ると考えられていました。
優れた才能の持ち主を称える時に「○○の鬼才」などと言いますが、「鬼才」は中国では特定個人に向けた異称・異名です。唐 (618~907)代の詩人・李賀を指します。若くして才能を認められた彼は、国家公務員試験である科挙でその才能と名声を妬んだ試験官から理不尽な理由で受験資格を取り上げられ、失意の内に多くの名作を残して死んだ不遇の詩人でした。
草暖雲昏万里春
(草は暖かく暗い雲が遥かに春の野に続く)
宮花払面送行人
(皇帝の庭から飛ぶ花びらが故郷へ帰る私の顔を撫でて行く)
『出城寄権璩楊敬之』(←タイトル長過ぎ)と題した彼の詩の1節です。野心に溢れ都に向かった時には思いもしなかった失意の帰郷を詠んだ繊細な作品です。
才能はありました。
しかし、こうした鬱屈を抱え一族の期待に応えられなかったという思いは彼の詩作に暗い翳を落とします。彼はかなりの割合で「幽霊」「鬼」を題材にした詩を残しています(このテーマには関係ありませんがお酒も良く出て来ます)。恨みを飲んで死んだ人間が土中の青い宝石に変じた伝説や墓で唄う幽霊、ヒトダマそのもの(原文では「翠燭」)なども出て来ます。出来が良いだけに読む者をゾワっとさせる、何ともやるせない才能もあったものです。人をして「鬼才」と呼ばしめた李賀は、正に「鬼」=「恨み」を心に抱いた詩人でした。
余談ですけど、どういうつもりだったのか分かりませんが田中芳樹さんの長編小説『創竜伝』に突然李賀の名前が出て来て驚いた事があります。
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