Catch14 鉢の木
少し早目の投稿です
私は鎌倉や三浦半島が大好きで、よく訪れます。新宿から湘南新宿ラインで1時間と少し。ゆっくりと日帰りで旅行気分を味わえます。
鎌倉~逗子~久里浜のJR横須賀線方面もいいですし、京浜急行(京急)で半島の東側だけを行くのも楽しめます。
太古から隆起と沈降を繰り返して今の姿になった三浦半島は、驚くほど地形が複雑で景色は変化に富んでいます。
鎌倉時代はもちろん戦国時代にも数々の歴史の舞台になっており、横須賀を除いて新鮮な海鮮料理をほぼ全域で堪能出来たりもします。
横須賀は横須賀で猿島要塞や戦艦三笠など、近代日本の歴史に関心のある方には見所が集まっています。
私は横須賀線で鎌倉に向かう場合、かなりの割合で鎌倉駅の一つ手前の北鎌倉で下車してしまいます。北鎌倉を起点にしたルートも中々充実した物があります。
先ほどから列車移動を前提に書いていますが、鎌倉や三浦半島に出掛けるには断然電車をお薦めします。
何しろ鎌倉市内も半島全体も道が少なく駐車場もキャパがないので、車で出掛けるととにかくどエライ目に逢いますよ(特に休日)。
さて、北鎌倉駅を出るとやたらこげ茶色の『鉢の木』という看板を見掛けます。北鎌倉にある「お食事処」なのですが、お店の名前の元になったのは鎌倉時代の執権・北条時頼のエピソードです。
鎌倉幕府の実質的な支配者となる北条一族は、開幕当初から得宗と呼ばれる一族の当主を中心として結束し、他氏を次々追い落として行きます。
体制を固めたのが鎌倉幕府第三代執権となった時頼の時代でした。時頼は源頼朝を助けた北条時政の孫の孫です。
30代に入る前に大病をした時頼は権力の座を確実にまだ幼かった我が子(モンゴル襲来の時に執権を務めた北条時宗です)に伝える為に出家して地位を譲り、形式的には無位の身ながら37歳で亡くなるまで事実上幕府の最高権力者であり続けました。
この「執権を退いて毎日幕府で執務をする事も無くなったのに全ての決定権を握っている」というヘンテコな状態が「廻国伝説」を生みます。
後の『水戸黄門』よろしく「時頼公(出家した後なので最明寺入道と呼ばれました)は身分を隠して各地をめぐった」という物です。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には全く記述は無いのですが、出所不明のエピソードをいくつも拾い上げている史書『増鏡』や軍記物語『太平記』には「時頼の廻国」に関する記述が見えます。
「鉢の木伝説」も廻国伝説からさらに派生した話です。
「鉢の木」は、ある武士が吹雪に一夜の宿を求めた行者を泊め、貧しさ故に薪も無いなか伝来の美しい盆栽を潰して薪の代わりとしてもてなした所、後日「いざ鎌倉」と言われた武士の動員命令で幕府に馳せ参じてみると、誰あろうその行者が時頼であり褒美をもらう、という物です。
後に謡曲『鉢木』として能の演目になり(作者は世阿弥と言われています)、広く世に知られるようになりました。
能の名作は大体後世に浄瑠璃や歌舞伎になる事が多いのですが(『舟弁慶』→『義経千本桜』など)、『鉢木』も同じルートをたどります。
褒美をもらった武士の名は「佐野源左衛門常世」といい、栃木県佐野の人だった事になっているのですが、なぜか東京の合羽橋にも「佐野氏の家があった場所」という碑があります。
本願寺の斜め前辺りです。
以前、通り掛かりに見つけて仰け反ってしまいました。
鎌倉や三浦半島についてはまだまだ書きたい事が沢山あります。お楽しみに。