Catch132 レクイエム
優しい人でした。決して経済的には余裕の無い家に生まれ、努力して教員免許を取りました。
新潟には「もしか兄にゃ」という言葉があります。「兄にゃ様」とは家父長制 (いわゆる「家制度」)での次の家長に決まっている男子か継いだばかりの若い家長の事です(若く無くなった家長は「親父様」か「爺様」)。早い話が長男です。そして「もしか兄にゃ」は「長男が何かあった時に兄にゃ様になる人」、「次男」を家制度的に捉えた言葉なのです。
彼はもしか兄にゃでしたが、兄が幼い時に小児麻痺で足が不自由になり、小さい頃から半分「兄にゃ様」でした。なぜ半分かというと彼の兄は足こそ不自由でしたが頭脳は明晰でしたし、家は農家や立ち仕事の商売などの「障がい者では後を継ぐのが難しい家」ではなかったからでした。そもそも彼らの父親が鉄道の職員で、継ぐの継がないのという話とは無縁だった事も大きかったのですが。
「二人兄にゃ」のようなまま兄と彼は社会人になり、弟妹の学費なども援助している頃、縁あって結婚しました。「マイホーム主義」などという言葉が定着する前から家庭を大事にする人でした。二人の子どもに恵まれ、次第に荒れて行く教育の現場に心を痛めながらも務めを果たし、退職まで4つの学校で教え子たちを社会に送り出しました。
山に登るのが好きで、この方面では全く趣味が合わなかった妻とは別行動でしたが、休日には各地の山に足を伸ばしました。長男が成長すると幾度か手近な山に連れて行ったりもしています。
子どもたちも含め酒豪気味の一家だったので、全員が飲酒可能な年齢になった後は「鬼の酒盛り」風の晩酌をよくしていたものです。
妻が病に倒れてからは危ぶむ周りの(善意の)忠告を聞きながらも、結局ほぼ自分1人で介護を続けていました。コロナ禍の中で病床の確保が問題になっている時分に死病に倒れ、支えていた妻より先に違う世界へ旅立ちました。
お父さん、私はあなたの家族として生まれてきて本当に幸せでした。いつかは私もそちらへ行きますが、その時はまた、一緒にお酒を飲もうね。大好きだった二王子岳を眺めながら。