Catch118 願いと祈り
人が理不尽な出来事で苦しむ限り宗教はつおい。
羽越本線という鄙びたJRの路線があります。新潟市秋葉区 (旧新津市)の『新津駅』を起点として日本海沿岸を北上し、秋田までを繋ぐ『哀しみ本線日本海』みたいなルートです。
これ、「本線」とは言うものの、帝国憲法時代に「富国強兵策」の一環で北海道から下関までの日本海側を通る物流の大動脈として整備された後、戦後の人口動態の変化で沿線が寂れたせいで新津から新発田までは単線となっています(新発田から北は新潟から来る便も合流するので複線を維持しています)。
私は幼少期にこの新発田ー新津間の駅ごとにある小さな集落に何度か親に連れていってもらった事がありました。昔ながらの秋祭り、ささやかな縁日が村々で行われていて、そうしたお祭りでオモチャなどを買って貰っていた物です。
子どもですから、お祭りが農村地帯で豊作を願い祝って行われていたなど知るよしもありませんでした。あのささやかなお祭りは維持出来ているのかなぁと、本数も減り単線になってしまった羽越本線に乗りながら心配になりました。
今にして思えばこうしたお祭りなどは冬から春にかけて食べる物が尽きて家族の誰かが死ぬのも当たり前だった時代の名残だったのですよね。例えそんな遥か昔の必死な営みが豊かになって記憶の彼方に行ってしまっていても。
私たちは忘れてかけてしまっていますが、自然と向き合って人が生き延びるのは本来とても大変なことで、人智を超えた存在に自分と家族の幸せを叶えて欲しいと願うのは当たり前の事でした。願いは強く、或いは重くなる程、祈りに近くなっていきます。
「祈り」と「願い」は似ている様で違う物です。どちらも「望みが叶う事を強く希望する」点は同じですが、実現する「主体」が違うのです。普段はこの辺りを曖昧に認識して同じように使ってしまいます。しかし「願い」の主体は本来「人」で、望みは人が努力するなり許認可権を持つ者が承諾するなり、大体「人」が叶える事に使うように思います。
対して「祈り」は神様やら仏様やら運命やら明らかに「人よりも上の存在」に「叶えて下さい」と強く望みます。人間では叶えようもない事を「実現して欲しい」と縋る訳です。まあ、「願い」も相手や場合によっては縋る事もあるでしょうけれど、少なくとも人間に対しては祈りませんよね。
2500年くらい前にお釈迦様が開いた仏教では、人生に於ける根本的な苦しみを「生」「病」「老」「死」の四つとして捉えています。その何れもが科学の発展で昔とは比べ物にならないほど苦しみを軽く出来ている事を考えると、平和な住みやすい時代が続くほど徐々に「祈り」よりも「願い」が増えて行く様な気がしています。
今ウクライナで行われている戦争を考えると分かりやすいでしょう。ミサイルや銃弾が飛び交う所では祈りの出番、戦争は人間がその意志でやっている事なので願いの領域。やらせている人間が「戦争やめます」と決断すればいいのですから。
プーチンさん? 世界の多くの人があなたの決断を願っていますよ?
祈るより人の力で解決できる事を増やして行く事です。戦争をしない、ようにするとか。