Catch116 王の山
国だろうが自治体だろうが、飛び地なんてトラブルの元だと思います。
開戦当初、双方の戦力にかなり差がある事もあり短期で終わるのではないかと思われたウクライナに対するロシアの侵略戦争。1ヶ月が過ぎても戦争は止む気配も無く、停戦交渉は断続的に行われている物の、そもそもロシア側に本気で停戦を目指す気があるのか疑わしい状況です。
連日ウクライナと周辺諸国の地図がニュースで映し出されていますが、当事国のウクライナとロシア、そして最近は「既にロシアが実効支配している地域」や「どちらかが占領や奪回を主張している地域」などに色分けされています。周辺諸国も含んだ少し広めの範囲の地図にはバルト三国とポーランドの間にロシア側の色で塗られているロシアの飛び地が見えます。ロシア領カリーニングラード州です。
今、私が「名前が変わった街」で興味を持っているのがこの州の中心都市「カリーニングラード」です。元の名前は「ケーニヒスベルク」といいます。
ソヴェート=ロシアが崩壊した頃、「カリーニングラードを元の名前に戻そうという市民の声が上がる」という記事を読んで、この街の旧名がケーニヒスベルクだった事を知り腰を抜かしました。
ケーニヒスベルク。
ドイツ哲学の巨人・カント先生が生涯一歩も外に出ずに過ごした街ではありませんか。毎日正確なスケジュールをこなすカント先生に、街の人たちが「カント先生の通過する姿を見て時計のズレを直した」というエピソードを残した街です。東西冷戦が続いていた頃にカントに関わるこうした話を聞いていた私は「どの辺にあるのか知らないが、ドイツのどこかなのだろう」程度の認識でおりました。
その「ドイツ」とは「旧・西」でも「旧・東」でもなく、帝国時代のドイツ領を一部吸収したポーランドでもなく、まさかの「旧・ソ連領」だったとは。驚愕とはこのことです。
慌てて調べてみて分かったのは改めてヨーロッパの歴史が私の想像を超える複雑な経緯を持っているという事でした。今、行政上ロシアが「カリーニングラード州」と呼称している地域は、歴史的な経緯を踏まえると「東プロイセンの北半分」に当たります。ドイツ帝国(1871~1919)統一以前のドイツは戦国時代の日本のように、同じ言葉を話す同一文化圏の人々が細かく多くの国に別れている状態でした。
地続きでドイツ語文化圏の外とも繋がる分、日本の戦国大名たちよりも「国」としての自立性は強かったでしょう。それを統一したのがドイツ文化圏の東の外れにあったプロイセン公国です。
ややこしいのはこのプロイセン、国名の由来になったのは中世に東方へのドイツ人騎士団の拡大・植民運動で成立したプロイセン地方 (今のポーランド北部一帯)なのに、本拠地はベルリン近辺の「ブランデンブルグ」だった事です。ブランデンブルグ公国の公爵が血縁からプロイセン公国も受け継ぎました。両方が領土になった後で政治事情によってプロイセン公爵と名乗った方が有利な状況が発生し、「本拠地はブランデンブルグなのに名前はプロイセン」というヘンテコな状態になったらしいです。カントはこの頃の人です。
そのままナポレオン戦争を戦い統一運動を成功させ、ドイツ帝国は謂わば「拡大プロイセン帝国」のような形で成立しました。第一次世界大戦でドイツ帝国が崩壊すると、戦後処理の一環で「ポーランド分割」により国としては消滅していたポーランドを復活させる事になりました。ポーランドは「海への出口を保証する」目的でプロイセン地方のど真ん中にも領土を貰います。「ポーランド回廊」です。これで東プロイセンがドイツ本国から切り離され飛び地になってしまいました。
ポーランド回廊の返還を要求するナチスドイツによるポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まり、5年半後にナチスが敗北します。こちらの戦後処理で東プロイセンの南半分がポーランドへ、北半分はソ連へ編入されました。ドイツ騎士団の建設以来「ケーニヒスベルク (王の山)」と呼ばれて来たプロイセンの中心都市が、ロシア革命の指導者の一人から「カリーニングラード」と名前を変えたのはこの時の事でした……。
いやいやいや、こんなん想像出来ませんって。バリバリ「ロシア感」の街・地域が「実はドイツだった」なんて。
そして「ケーニヒスベルクに戻そう運動」はどうもその後また紆余曲折を経たようで、世界地図を見ると2001年版『グローバルアクセス』(昭文社)で「ケーニヒスベルク」と表記されているのに2020年版『GLOBAL MAPS』(昭文社)では再び「カリーニングラード」に戻っておりました。どうなっているのでしょう?
経済的困窮と復活、マフィアの暗躍など相当ヒドイ状態が続いていたようです。