Catch107 国家の限界
戦争で犠牲になるのは一般市民です。
多様性が概念としてようやく広まって来た昨今ですが、「知っている」事と「賛同する」事の間にはまだまだ開きがあるのが現状です。
様々な生き方考え方を対等の物として認め、他者を尊重する事が難しいのは当然ですが、それが出来ない程人類は貧しくないと思うのです。
もちろん一方的に他者を否定する様な言動は“多様性”やら“思想信条の自由”では保証されません。「○○人はこの国から出て行け」「障がい者は殺した方が本人家族の為だ」という類いの“思想信条”を持つのは“自由だ”とか、それを発信するのも“自由なんだろ”とか屁理屈を言う人もおります。
しかしこんな物は「自由」という言葉に隠れた言葉遊びに過ぎません。他者の否定は正に多様性を否定する「反・自由」とでもいうべき物で、国連の人権委員会が策定したガイドラインにも「表現の自由」と「ヘイト」の線引きは明確にされています。
しかし「国」を絡めると、どうも人間はおかしくなってしまう様です。今、ウクライナでロシアによる侵略戦争が続いていますが、双方で「自国の勝利の為」と愛国心を高めようと様々な発信を行っております。侵略戦争を仕掛けられたウクライナが祖国の防衛を訴えるのは仕方がありません。政権に反対するのにも命懸けのロシアで反戦運動が起きる程、ロシア国内でも「大義の無さ」を感じる人がいる中で、嘘に塗れた報道統制をしデモ隊を逮捕しまくってまで愛国心を高めなければならないとはなんと無様な事でしょうか。
ロシアとウクライナは地続きです。当然「先祖代々純粋なロシア人!」「家はウクライナの血しか流れていません」などという人はそんなにいないはずです。ましてやつい30年前まで「ソヴェート連邦」という“同じ国”だったのですから、ロシアだウクライナだと「国の為にあいつらをやっつけろ」と言われても無理があります。ロシアとウクライナの双方にルーツがある人はどうすれば良いのでしょうか。
オリンピック・パラリンピックが国別に選手団を編成して参加する事は、成績順で足切りをする種目別の世界選手権と違って「弱小国」や「貧困国」の選手にも参加の機会を与えるメリットがありますが、メダル競争に熱中してオリ・パラの原点でもある「他国他者のリスペクトと友好」が蔑ろにされやすいデメリットも発生しています。
今回の戦争で経済・資源・流通・政治が「どこか1国の都合で簡単に脅かされる物」である事が明らかになりました。
人類が抱える「環境」「経済格差」「ジェンダー」などに加え、「戦争」も国家が解決するには限界がある様です。広範な市民が各地で連帯する今回の反戦運動を見ているとそんな事を思ってしまいます。
普段、権力を集中して効率よく国際的な影響力を増やしているかに見えた中国が、今回の戦争を止めるのに何の役にもたっていないのは注目すべき点だと思います。