Catch106 意外ともろい鎌倉
以前にも書きましたが「源平合戦」は源氏と平氏の覇権争いではなく、京都政権に対する関東武士団の自治権奪取の戦いだったと考えた方がいいと思います。平家物語はあくまで読み物 (しかも書いたのは公家)ですから。
鎌倉は三方を山に囲まれ一方を遠浅の海が守る要害の地。そして源頼朝にとって父祖に縁の場所でもあったので本拠地とした、と言われているのですが、本当でしょうか。
歴史上に名の有る大きな戦いで鎌倉が戦場になると、ほとんどが鎌倉に立て籠った方、すなわち防衛側が負けております。新田義貞の鎌倉攻撃 (まあ、海と山の境い目を引き潮の時に突破するという想定外の奇襲でしたが)も、中先代の乱も、北畠顕家の足利尊氏追討も、上杉禅秀の乱も、永享の乱も、全て鎌倉に籠った方の負け。
建設省→国土交通省の元官僚である竹村公太郎氏が書いた『日本史の謎は「地形」で解ける』という楽しい本がありますが、著者はこの「いざ、鎌倉」ならぬ「なぜ、鎌倉」問題を「都市の浄化機能を越えた人口集中で衛生状態が悪化した事でしばしば疫病に襲われていた京都を見ていた頼朝が、大人口を集中させたくても狭くて出来ない場所という点を買って鎌倉にした」と中々面白い説を披露しています。
面白いんですが、熱田 (今の愛知県名古屋市)で生まれ14才で平治の乱に巻き込まれて伊豆へ流され20年を過ごした頼朝にそんな視点があったのかなあ。
確かに鎌倉を取り巻くさして高くもない山々は、竹村氏の指摘通り単に「山」というだけでなく密集した草木に依って道以外の場所を登る事など不可能な「鉄壁」となっています。しかし、山自体が小さいので保水力はそれほどありません。井戸を掘り「上水」は確保しやすくとも、「下水」に苦労しただろうと思うのです。
実際、三方の山から流れ出す水は東側の「滑川」西側の「扇川」くらいしかなく、しかもどちらも「え? これ?」というくらい小さな川です。これでは最盛期に3万人を超える人口を抱えたと言われている中世の鎌倉で、やはり京都と同じく衛生上の問題が生じたでしょう。
鎌倉が武家政権の本拠地に選ばれたのは治承・寿永の乱 (いわゆる源平合戦)初期の政治的事情も大きかったと思います。
鎌倉を占領した当初、関東の大半はまだ頼朝の支配が及んでいませんでした。その状況で京都政権 (権威を朝廷と寺社、実務を公家、武力を平氏が担当)の寄越した追討軍を追い返さなくてはならず、しかも本拠地を奪われる訳にはいかなかったのです。
追討軍に向けて主力を送り出し、留守を守る少数の兵力でも守れそうな本拠地で、京都に対する関東武士団の自立を既成事実にするためには“権威”も必要。鎌倉はうってつけでした。
しかし頼朝に従おうとしない近隣の武士が動員する3~4桁程度の相手ならともかく、万を超える軍勢が押し寄せたら守り様がありません。幸い富士川の戦いで追討軍を追い返す事が出来た頼朝は、同時並行で“都”としての権威を「内裏代わり」に鶴岡八幡宮造営を進めています。
この神社が武士にとっての宮殿だったのは、頼朝が京都から来た征夷大将軍任命の使者を大倉の政庁ではなく鶴岡八幡宮で迎えた事で分かります。
鎌倉は初めから「大軍を迎え討つ為の本拠地」ではありませんでした。源平合戦のごく一時期に付近の少数を防ぐ事が出来れば十分だったのです。実際に中世後半に戦いが大軍を動員する様になると、ことごとく守る側が負けるのは当然でした。
武士の都として、支配している事が権威付けになる為に様々な政治情勢の中で狙われる物の、守ろうとするとほぼ失敗するという変な“実績”はこうして繰り返されたのだと思うのです。
竹村氏はインフラのプロとして本当にあの二つの川が十分に浄化機能を持っていたと思ったのか、とても疑問です。