3
「いえ、そういうわけでは……」
と和真は言って、すみませんと付け加えた。すると、岩島はゲラゲラと笑いながら、
「なんやそれ。その通りですって言うとけや」
なにが面白いのか和真は理解できなかった。はあ、と和真は声を漏らして、
「俺、何か変なこと言いましたか?」
「何でや?」
「いや、笑っているので」
ああ、と岩島は言って、
「笑う門には福来たる。笑っとったらええこと起きる思うてな」
その言葉に和真は納得した。確かに、笑っていれば良いことが起きる。現に、笑ったお陰で和真は命拾いをしたのだから。
「さて、おてんとさんも昇ってきたことやし、帰ろか」
東の空に頭を出している太陽を眺めつつ、岩島は欠伸をした。暗かった空は明るくなり、鳥達が飛び立ち始める。
岩島につられて、和真は欠伸をした。追われている時は平気だったはずなのに、今ではすぐに眠くなってしまう。
帰りのタクシーの中、いつの間にか和真は眠ってしまっていた。
酒は強い方ではない。しかし、和真は岩島に誘われるがまま、大量の酒を飲み続けた。なので、酔い潰れない方が不思議だ。
目を覚ますと、和真は部屋の中にいた。ベッドの上で仰向けに寝ている彼は、なぜそこにいるのか覚えていない。
カーテンの隙間から漏れている陽光は橙色で、サイドテーブルに置かれたデジタル時計は夕方の五時だと表示している。
和真はズキズキと痛む頭を押さえつつ、上体を起こした。どうやって脱いだのか、スーツの上着はクローゼットの持ち手にあるハンガーに掛けられている。
部屋住みという仕事があるというのに、今日は何も出来ていない。これでは大目玉を食らうと、和真は溜め息を吐いた。
和真はサイドテーブルの上に置いてある携帯電話を手に取り、岩島に電話を掛けた。
「ようやっと目覚ましたんかい。もう夕方やで? また飲み行くか?」
いや、と和真は断って、
「すみません。またカシラに迷惑をかけてしまって……」
「迷惑? 何のことや?」
「昨日、カシラが俺を事務所まで連れて帰ってくれたんですよね?」
「連れて帰る? ワシは知らんで?」
とはっきり言われ、和真は返事に困った。
和真を神田組の事務所にある部屋まで連れて帰ったのは、どう考えても岩島しかいない。それでも、岩島は頑なに違うと答える。
そのため、それ以上追及することが出来ず、和真は無理に聞くのを止めた。
電話を切った後、和真はシャワーを浴びるために部屋から出た。すると、廊下の掃除をしていた坊主頭の男と目が合う。
この男も部屋住みで、名は浦田翔也。
「カシラのお気に入りは何しても許されるから良いよな」
と床を拭きながら、浦田は和真を睨んだ。
浦田は和真が嫌いだった。岩島のお気に入り、その事が気に食わない浦田は、ことあるごとに和真の文句ばかり言っている。
しかし、当の本人である和真は全く気にしておらず、浦田を相手にすらしていない。
それが、浦田の怒りを煽っていることも知らず、また敵を作っていることも知らず。
「シャワーを浴びたら直ぐに手伝う」
そう言い残して、和真は洗面所へ入った。
「手伝ってほしいなんて言ってねえぞ、こら」
血の気の多い浦田が怒鳴る怒鳴る。その怒鳴り声は、若衆達がいる部屋まで聞こえていたらしく、
「うるせえぞ!」
と怒鳴り声が上がった。
すみません、と浦田は言って、
「でも、白石が──」
「白石? 白石がどうした?」
「……いえ、何でもないっす」
和真が風呂から上がった頃には、廊下の掃除は終わっていた。再び部屋に戻ろうとしていた矢先、若衆達がいる部屋から騒がしい声が聞こえてくる。
「せやから、何もしてません」
気になってそちらに近付くと、岩島の話し声が聞こえてきた。
「何もしてません? なら、なんでマル暴が事務所にくるんか!」
それを追うように、神田の叫び声が聞こえてくる。そして、凄まじい衝撃音が上がり、制止の声がガヤガヤと騒がしい。
和真は廊下から部屋のようすを窺っていた。部屋に入るという選択肢もあったが、「部屋住みの自分がでしゃばるのは変だ」と思い入らずにいた。
「知りませんよ。そや、マル暴はオヤジの顔が見たかったんとちゃいますか? いやあ、オヤジは男前やからなあ」
ははは、と岩島は笑っているが、その声にいつもの余裕はない。どこか、焦っているようだ、
「きさん、ワシを馬鹿にしよんか?」
「してません。この顔がしてるように見えますか?」
「植木鉢で堅気を殴った奴が、なんばいいようとか?」
ううう、と岩島は舌をもつれさせて、
「植木鉢で堅気を殴る? そんなえげつないことする奴がこの世におるんですか? いやあ、世の中怖いわあ」
「俺が何も知らんと思うちょんか? おい、白石を呼べ」
神田の話し声の後に、「はい」と返事をする声が聞こえた。そして、部屋の扉が開く。
出てきたのは三十代位の若衆だ。男は和真を見るなり、
「オヤジがお呼びだ。中へ入れ」
「はい」
と和真は返事をして、部屋の中へ入る。
部屋の中は殺伐としていた。黒革のソファーに座っている神田は睨むように和真を見ていて、その向かいのソファーにいる岩島は貧乏揺すりをしている。そして、若衆達は怯えた目の色で二人を見ていて、部屋の中はまさに地獄絵図だ。