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(光が、眩しい______)
瞑っている状態でも分かるほど、その場所は明るくて暖かい場所だった。ぬくい何かが兎和の身に擦り寄り、心地の良い木々の音が鼓膜を揺らし、お日様と花の香りが鼻を掠める。
湿った制服だけが少し気持ち悪い。
「ぅっ…」
力が上手く入らない腕に鞭を打ち、手の平で影を作りながら、兎和はゆっくりと目を開けた。眩しいままの視界に思わず涙が流れたが、ぼんやりとした風景は、段々と鮮明さを増していく。
兎和の視界に映った最初のものは、
「おや、起きたみたいだね」
白く透き通る肌に、銀の糸のようにさらさらとした髪を持ち、人間離れしたオーロラに輝くは宝石のようだ。優しいメゾソプラノボイスは、心地好く、兎和の思考を微睡ませる。
(やば…また、落ち…る……)
一瞬瞳を閉じた兎和が意識を失う寸前、右の手にもふっとした何かが当たった。次の瞬間、兎和はカッと目を見開き、ガバッと身を起こすと、声にならない声を上げた。
「っ〜〜〜っっ…!!?」
「ふふ、元気そうで良かった」
ぱくぱくと先ほど見ていた鯉のように口の開閉を繰り返す兎和。それを見てにっこり微笑む女性のような男性のようなヒト。彼は湖に下半身を浸からせ、縁に身を乗り出したまま、兎和をじぃっと見つめた。オーロラの瞳が、七色に光る。
兎和はハッとして辺りを見渡した。
(ここ、ど、こ、!?)
目の前に広がるのは、綺麗な緑に囲まれた小さめの湖。兎和がいるのはその畔らしい。
爽やかな風が優しく木々を揺らした。自分が吸っていた寒空の淀んだ空気が、嘘みたいに澄んでいて、思わず立ち上がって深呼吸をする。
普段聞き慣れている雑音がない。近くで流れる小川のせせらぎや、小鳥や虫の声が、回っていない脳を刺激した。
中でも、湖の表面に太陽が反射し、きらきらと宝石のように輝くそれは、瞬きなんぞ出来ないほどの光景であった。波面が光が入る度に色を変える。
RPGさながら、湖の上空をふらりふらりと浮遊する光が幻想さを醸し出している。
(ここは、私の知っている場所ではない)
そう悟るのに、時間は必要なかった。
(だって、さっきまで私は中庭の池から教科書を拾い上げていて______)
ぐいっと何かに手を引かれた所までははっきりと覚えているが、どういう経緯でこの場所に辿り着いたのかは検討もつかない。
「あ、あのっ、」
そう声を出した矢先、足元に擦り寄る獣特有の毛の感触に、体を強ばらせたまま、首をギギギと動かして足元に目をやる。
「きゅっ」
「ひゅっ…」
喉から息が抜けた。
毛玉のような白い塊。それは兎和の足に擦り寄ったまま、兎和を見上げ嬉しそうに鳴いた。
ウサギかと思ったが、耳が無く、よちよちとした短足な四足歩行が特徴的で可愛らしい。お尻の丸みからぴょんっと出た短い尻尾を、ふりふりと振っている。
「かっ、かわっ、いぃぃぃぃ……」
兎和は咄嗟に両手で顔を覆い、指の隙間からその可愛らしい毛玉を凝視した。
「やばぁ…もっふもふだねきみ…」
「きゅっ!」
「はぁぁぁぁ…かわいすぎて罪だよ…」
「きゅきゅっ!」
思わず優しく抱き上げてみれば、最高級シルクのような手触りと共に、澄んだ瞳でこちらを見つめる生き物。両手ですっぽりと納まってしまう程の大きさだ。
「おや…森の動物が人間に懐くなんて珍しいこともあるんだね」
「えっ、?」
「ところで、キミは誰?何処から来たの?」
兎和は少し緊張な主向きで、先ほどの彼の瞳を見つめた。それには疑の文字が浮かんでいるように感じられ、少しだけ背筋がピンとする。
「私は…楠木兎和と言います。元いた場所は日本で、気がついたら此処に、」
「クスノキトワ…。ニホン?聞いたことがないな…。でも、嘘はついて無さそうだね」
見え透いた瞳を、やんわりと細めた。
「意識が無かったから、きっと気絶していたのだと思うけれど、キミは空から降って来て、森の結界を破って湖に落ちてきたんだよ」
「森…結界…?湖…だから、濡れてるのか」
「そう、僕が君を岸に上げたんだ。体は大丈夫?僕力が弱くてね、少し手荒に押し上げさせてもらったんだけど」
「あっ、はい。大丈夫、です」
それなら良かった、と笑う彼に、すぐさま兎和は頭を下げ礼を言った。そして気になっていたことを聞いてみる。
「すみません…まだ頭がついていかなくて…。此処は、何処ですか?貴方は…」
「嗚呼、ごめんね。自己紹介がまだだった。僕はこの湖の守護妖精ヴィヴィアン。ヴィー、とでも呼んで」
「…ヴィー……」
「うん、君のことはトワで良いのかな?」
こくりと頷くトワに、ヴィーは天女のように微笑む。
「此処が何処か、を話そうと思ったんだけど、ごめんね。どうやら、王さまがお怒りらしいよ」
「王さま?」
苦笑いを浮かべるヴィーは、ちゃぷん、と湖に身を沈めてしまった。取り残されたのは、兎和と毛玉だけである。
「ちょっとー!!?」
その瞬間、大地がゴゴゴ…という音を立てながら揺れる。木々がざざめき、動物達も慌てふためく。兎和の手に乗っていた毛玉も、身を震わせて縮こまる。
(なになになになに!?)
毛玉を抱き締め、足に力を入れて踏み止まろうとするも、ぐらりと揺れた地に耐え切れなくなり強く尻餅を着いてしまった。
「痛っ…、ひっ、!?」
その束の間、止んだ地震と共に、兎和の喉元には、鋭い剣の刃が向けられていた。銀色にきらりと光った剣の主を、額に汗を浮かべながら見上げる。
「…人間……?」
眉間に皺を寄せ、剣を一寸もぶれさせずにいる男は、不快そうに呟く。
兎和を見据えたボルドーの瞳は鋭い。漆黒とも言える艶々とした黒髪に、陶器のような白い肌を持ち、スッとした鼻筋に切れ長の目…。それはそれは、御伽話に出てくる王子様のように完璧であった。
「……ちっ、…」
何かをじっと見つめた男は、舌打ちをすると剣を兎和から離す。剣は彼の手からスゥッと溶け込むように消えていった。
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