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「…はぁ……」
楠木兎和は、寒空の下で、独り溜息をついた。
吐いた息は白く、一瞬で天へ上り消えていった。心の底からの溜息だ。
(どうすんだ、これ)
そう思いながらも、兎和は冷静であった。
(…いや、どう考えても買い直しだよね。親になんて説明したら良いのか)
自分の娘が虐めに合っています、となった時、普通の家庭ならどう考えるのだろう。担任に相談して、とか、教育委員会に訴えて、とかだろうか。
いいや、そうではない。
きっと自分の家は____________ 、
直ぐに、ハッとした兎和は、ぐっと拳に力を込め、頭をぶんぶんと横に振った。
そもそも、兎和は虐めが始まったであろうきっかけに対して、全くもって解せなかった。
席替えのクジ引きでクラス1の(雰囲気)イケメンの隣を引いたのが1ヶ月前。そんな(雰囲気)イケメンに告白されたのは3週間前。断ったのもその日の内だ。そして報復という名の女子からの嫌がらせが始まったのは2週間前。最初は上履きに画鋲なんて優しいものだったが、遂にここまで来たということか。
校内中庭にあるそこそこな広さの池。兎和の物であろう教科書が、見事に鯉の餌になっていた。ぱくぱくと口を開けた鯉が、兎和の教科書を餌と勘違いして食んでいる。池自体は大して深くはないが、正直取りたくない。
何処からか、くすくすと笑う声が聞こえた。
(あ〜…ヤな感じ)
女子特有のなにあれウケる、は正直全く笑えないことの方が多い。
クラスのカーストなんてものは、男女共に、小学生の頃から、変わらず、運動神経が良いが1番だと決まっている。クラスで1番頭が良かろうが、(よっぽどのハンサムか美少女か、でなければ)駆けっこナンバーワンには勝てっこないのだ。
その典型的な例に見事当てはまってしまったのが兎和である。
(あの(雰囲気)イケメン、足速いもんなぁ…くっそ頭悪いけど)
けっ、と、近くにあった小石を(雰囲気)イケメンに見立てて蹴り飛ばした。小石は跳ねもせず、池の中にぽちゃんと沈む。
そっと池を覗き込み、映る自分の顔を見てゆっくりと目を伏せた。なんて酷い顔だろうか。大丈夫大丈夫と、言葉では自分を宥めていたが、結局胸の奥は虚しさと複雑な何かでいっぱいだ。
ぎゅっと心臓の辺りのワイシャツをくしゃりと握り締める。
(…いかん、正気を失ったら終わりだ)
よし、と、もう一度ちゃんと前を向いた。
鯉が誤飲して死んでも胸糞悪いし、取り敢えず池から教科書を取り出すことにした。きっとこんな姿を見たら、彼女達はまた笑うだろうが、そんな事は気にも止めない。
ブレザーごとワイシャツの袖を捲る。外気が肌に触れ、その冷たさに鳥肌が立った。
(冬の池とか絶対冷たいじゃんねぇ)
はぁっ、と、既に悴む指先に息を送るも、直ぐに外気にさらされ意味が無い。さっさと終わらせるか、と意を決してしゃがみ込み、池に手を入れた。
ちゃぷっと指先から浸かり、波紋が広がって鯉はバタバタと尾を忙しなく動かして離れていった。案の定、氷のように冷たい水から、1冊2冊3冊と教科書を順に拾い上げていく。よくもまぁ丸ごと池に落としてくれたものだ。
これが終わったらさっさとストーブにでも当たりに行こう。温か〜い飲み物も買って。
(よし、あと少し)
そして、最後の1冊になった所で、急にぐいっと腕を引かれる感覚に、兎和の心臓は大きく跳ね上がる。
「えっちょ、っっえええぇっ!?」
そのまま、ザバァンッと荒波のような音を立てて、兎和は池に落ちた。…否、吸い込まれたように消えたのだった。
兎和のいなくなった池。次第に波紋が消え、時間を取り戻したかのように鯉達が拾い上げるはずだった最後の1冊を食む。
う〜寒、とギラギラした爪がついた手で身を摩る数人の女子生徒が、中庭できょろきょろと辺りを見渡した。
「ねぇさっき楠木、池んとこにいたよね?」
「うん、いたはずだけど…。なにこれ、教科書放置してどっか行ったわけ?」
「知らなーい。寒すぎて保健室にでも逃げたんじゃないの」
「つか鯉教科書食ってるよ、ウケる」
「ホントだ」
女子生徒の笑い声だけが、中庭に響いた。
意識が遠のく兎和の脳内で、そんな甲高い声がうっすらと聞こえるような気がした。
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