第八話 金の蜘蛛
歌はいつの間にか覚えていた。乳母がよく口ずさんでいたのだが、彼女自身も母親から聞いて覚えただけで詳しくは知らないらしい。優しくてどこか切ないその旋律は、初めて耳にした時から心に深く突き刺さっていた。初めに覚えたのはちくりとした痛みだった。心の奥に真っ直ぐ響くその痛みは取り去りたくても触れられず、記憶の片隅が揺さぶられるようだった。この気持ちが懐かしさと言うのだろうかと、少女はぼんやり考える。
不思議なこの歌は、『塔』に閉じ込められてからたびたび歌うようになっていた。見知らぬ子供たちの声で汚く罵られた時、その日の乳母との時間が終わって独りぼっちになってしまった時。胸の内にぽかりと穴が空き、息苦しいほどの痛みを覚えた時、その痛みをごまかすように口ずさんでいた。
黒蜘蛛に出会ってからもその習慣は変わらなかった。ただ、歌う時の心はどこか穏やかで、凪のように安らいでいた。蜘蛛の来訪を心待ちにしながら、揺り椅子に揺られてぼうっとしているときに、思わず口からこぼれ出てしまうのだ。
今も少女は歌っていた。太陽が真上に昇り、塔の入り口から落ちる影が薄く伸びる。蜘蛛はまだ姿を見せていない。
揺り椅子の大きな背にもたれかかり、腕をだらりと垂らす。慣れ親しんだ旋律を歌いながら、頭では蜘蛛に食べられる瞬間のことを考えていた。
大きな金の蛇を丸呑みした蜘蛛。あの大きな口で自分も丸呑みにされるのだろうか。それとも、細かくばらばらに分けられ、少しずつ食べられるのだろうか。そういえば、蜘蛛の食事風景を一度も見ていない。
美味しいだろうか。自分の手足を見下ろして悲しい気持ちになった。あんなに食べさせてもらっているのに肉付きは一向に良くならない。相変わらずやせ細っていて、白い肌は骨も血管も浮き出ている。乳母の美しい姿を思い出して、自分はなんて醜いのだろうと痛感した。
塔の底に落ちる影がゆらりと広がる。いつの間にか太陽が沈みかけている。蜘蛛はまだ来ていない。
腹が空腹に音を立てた。
一体どうしたのだろう。蜘蛛に何かあったのだろうか。思わず上体を起こす。自分が考えうる限りの悪い予感を頭の中で巡らせてしまう。乳母の読んでくれた本の中には様々な生き物について書かれたものがあった。蜘蛛は蛇や蜥蜴に食べられてしまうという。あの蜘蛛は普通の蜘蛛とは違うけれど、身体を大きくできても、火を出せても、何かの拍子にやられてしまうかもしれない。
やられる――殺される、ところまで考えて、少女は弾かれたように立ち上がった。裸足ですたすたと歩き出す。登れないことを承知していながら塔の入り口を見上げてしまう。
ざわざわと木々が揺れ、不穏な音を響かせる。
糸で塞がれた入り口に生き物の気配は感じられない。それでもじっとしていられなくて、少女は壁に手をついた。積み上げられた冷たい石の壁はところどころ朽ちていて、少女の細い指やつま先ならひっかかりそうな気がした。慎重に手を伸ばし、こわごわと足先をかける。
わずかに出っ張った石が、あっけないほど簡単に、するりと外れた。
口から悲鳴が漏れる。身体は支えを失い、背が石の床に勢いよくたたきつけられた。
「――っ」
声にならない呻きが漏れる。尻餅をついたまま、自分が足を外した場所を見上げた。壁を成している石が一つだけ外れ落ちている。その奥は真っ暗な空洞がぽかりと続いている。
出られる、と悟った途端、少女の身体から力が抜けた。もっと早く知っていたら、閉じ込められたままここで過ごすこともなかったのに。しかし、壁を壊そうだなんて考えつかなかったのは事実だ。
土なら掘れるかもしれない。地上へ向かって真っ直ぐ掘り進めばきっとたどり着く。出られたら、蜘蛛を探しに行こう。
穴をさらに広げようと隣の石に手をかける。初めはびくともしなかったが、引っ張ったり押したりを幾度も繰り返すたびに緩み、ごとりと動いた。そうして、細身の少女がやっと通れるほどの穴が空いた。
少女の瞳は決意の色を宿していた。身を乗り出し、真っ暗な穴蔵へ身体を埋めていった。
石の壁を背にして、少女は屈んだまま頭上の土壁に腕を突っ込んだ。土埃がぱらぱらと顔に落ちる。目を瞬きながらげほげほと咳き込んだ。土の塊は思ったよりも固く、重く、両腕を突っ込んだだけではなかなか崩れそうになかった。
出られる、という一心だったが早くも心が折れそうだった。しかし、ここまでできたのだからやるしかない。自らの心を奮起しもう一度腕を突っ込んでみる。さっきよりも強く、ぐいぐいとねじ込むとようやく土の壁に罅が入った。
もう少し、もう少し。歯を食いしばり、あらん限りの力を込める。額に汗がにじみ出る。少しでも掘り進めればきっと地上へ出られる、あの蜘蛛を探しにいける。
めりめり。土壁の亀裂が四方へ走る。ぐしゃりと崩れた刹那、大量の土がどさどさと降り注ぐ。
悲鳴をあげる暇もなく頭の先まで土に埋まってしまった。視界が閉ざされ空気が遮断される。苦しさに息を吐きながら夢中で腕をかき回す。冷たい土の塊は重くのしかかり、思うように動けない。
溺れるようにもがき続けた。息が続かなくなり意識が飛びそうになった時、突然、視界が広がった。
土が取り払われ、空気が口に流れ込んでくる。
ぜえぜえと必死で呼吸を繰り返す。目に入った土埃を腕でぬぐいながら、ぼやけた視界を取り戻そうとした。
暗闇の中に無数の光が見えた。少女の足元で真っ赤な光が広がり蠢いている。黒光りするたくさんの目が一斉にこちらを睨みつけていた。
それらは八本の脚を動かしながらうぞうぞと動き回り、少女の身体をよじ登ろうと次々に脚をかける。少女は悲鳴をあげ、背後の穴から『塔』の中へ戻ろうとした。
頭から石の床に落ち、死に物狂いで身をよじる。しかし無数の蜘蛛たちが穴からわらわらと這い出し、少女の行く手を防いだ。いつの間にか塔の底は蜘蛛たちで埋め尽くされていた。よく見るとその肢体は金色に輝いている。赤い光は背の模様だった。彼らは触肢を蠢かせながら牙を剥いた。
見たこともない蜘蛛たちが自分に敵意を向けている。理由はわからない。ただ無事では済まないことは痛いほどわかりきっていた。
食べられるのだろうか。自分はあの黒い蜘蛛の餌なのに。
あれだけ世話してもらったのに、他の蜘蛛に食べられてしまうのだろうか。
とても悲しい、と思った。目頭が熱を帯び、視界が滲む。
蜘蛛たちは一斉に動き出し、少女の目の前で大きく場所を空けた。一匹の蜘蛛の身体が輝き、目を瞬いた瞬間、巨大な金色の蜘蛛の姿に変貌を遂げる。
あの黒い蜘蛛と同じだ、と驚いているうちに、蜘蛛は大口を開け、金の糸を吐き出した。少女の身体にぐるぐると巻き付けられていく。他の蜘蛛たちも一斉に糸を吐き出し、石壁に半透明の網が広がった。巨大な蜘蛛は身動きの取れない少女の身体を糸で手繰って持ち上げると、張られたばかりの網へ乱暴に投げつけた。
背中を突き破られるような衝撃が走る。糸の網がなければ骨が砕かれていたかもしれない。身体が網にへばりつき、完全に捕らわれてしまった。





