第三十九話 攻防の果て
地下室は水を打ったように静かになった。鴉たちがぴたりと動きを止める。まるで時間に取り残されたようだった。
蜘蛛が起き上がり、リリーを庇うように前に立った。彼ら鴉は魔女の計画を最優先に考えている。リリーが死ねば魔女の血も途絶え、計画は破綻する。少し心配ではあるが、彼女が首にガラス片をつきつけている限り、彼らに手出しはできない。
このままうまく逃れ、彼女を外へ連れ出せれば――
だが、ふと妙な胸騒ぎを覚えた。鴉たちの動きがおかしい。皆、ぎらぎらとした殺意のこもった眼でこちらを見下ろしながら、鋭い嘴を赤々と染めている。
鴉たちが一斉に飛び上がるのと、蜘蛛がリリーの身体を抱き上げ跳躍したのはほぼ同時だった。
四方八方から金の閃光が迫りくる。体内の魔力の糸で見切りながら、返す糸で彼らを焼きこがし爪で切り裂く。しかし数が多くきりがない。
――なぜだ! 彼らは魔女の生まれ変わりが死んでもいいというのか?
ふと見ると、殺意に燃える鴉たちの中に、一羽だけおろおろと皆を止めようとしている鴉がいる。母の姿をしていた者だ。計画を忘れたのかと訴える声は小さく、彼らを止めるには無力すぎた。
この鴉たちにとって、会ったこともない遙か昔の魔女の計画などより、自分たちの長の命の方がよほど重要で大切なのだ。命令だからこそこれまでリリーの面倒を見てきたが、長が傷つき倒れた今、彼らの怒りがおさまることはないだろう。
鋭利な嘴を避け、燃える糸で焼きつけ、リリーを庇いながら必死に地下を走る。――眼前に出入り口が近づく。もう少し、もう少しで、地上へ出られる。
避けきれなかった鴉の嘴が背に突き刺さった。透明な血潮が吹き出す。痛みを堪えながら爪で反撃した。気がつけば体中が傷つけられている。だが構っている暇はない。今はリリーを逃がす、ただそれだけを考えなければ。
蜘蛛に抱かれ、鴉に追われながらリリーは完全に思考停止していた。手にしたガラス片の感触に、ああ、自分はまた役に立たなかったと、それだけが頭を巡っている。
蜘蛛が傷ついていく。自分を抱く脚と糸にとめどなく血が伝い落ちてくる。どうしていいかわからず涙が頬を流れていった。
だれか、助けて。このままでは、彼が。
心の中で叫んだのか、実際に口に出たのかわからない。
リリーの視界の端で、何かがごろごろと転がってきた。それは長い尾の絡まった金色の蛇だった。絡まったところに赤々と燃える松明が縛り付けられている。それは頭上に開いた出入り口から次々と転がり込んできているようだった。
呆気にとられていると、梯子に掴まった蛇たちが絡みあいながらこちらへするすると伸びて、蜘蛛の脚とリリーの身体に巻きついた。そのままぐいと引っ張られ、二人の身体はみるみる上へ引き上げられた。出入り口を通過した途端に木床へ乱暴に投げ出される。蜘蛛の視界の端で、地下倉庫の扉がばたんと勢いよく閉められた。
金色に染まった兎たちがぴょこぴょこと走り、互いの身体に乗ってキッチンの扉を開けた。
――はやく!
彼らの意思が頭に響く。蜘蛛はリリーを抱いたまま無我夢中で走り抜けた。
キッチン、広間、玄関ホール。それぞれの入り口を金色に染まった獣たちが守り、二人を通した。状況が呑み込めないが、とにかくこれを利用しない手はない。蜘蛛は走った。屋敷を飛び出し、青い月の煌煌と見下ろす中、草木の生い茂る広い丘を駆け抜ける。一度は抜けだし、二度と戻らぬとさえ思ったあの森へ飛び込んだ。
塔の底は懐かしい闇に満ちていた。蜘蛛の腕がリリーを放し、がくりと身体を横たえる。冷たい石床は氷のように冷えていた。リリーは糸を抜け出して、青ざめながら蜘蛛の身体を揺すった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……どうしよう、たくさん、傷が……」
背に、腹部に、頭部にまで、殺意に満ちた嘴に深々とえぐられた跡がある。彼は持ち前の俊敏さで器用に避けていたが、やはりあの数を相手にするのは無理があったのだ。
蜘蛛の身体がみるみる小さくなっていく。手のひらほどの大きさになり、リリーの足元で動かなくなった。その小さな身体を震える手で掬い上げ、涙に濡れた頬で触れた。
「どうしよう、死なないで……お願い、お願い……」
情けない言葉しか出てこない。
皮膚がひりつくほど冷たい床の上で膝を抱え、蜘蛛を胸に抱いた。どうか目覚めてと、繰り返し呟く。
宵闇の静寂の中で、木々のざわめく微かな音が響いている。闇は彼女の味方だった。塔の隅でうずくまる二人を包み、覆い隠していた。
どれほど時が経っただろうか。蜘蛛を抱きながら、少女もまた意識を手放しかけていた。
頭上で何かが擦れるような音がした。はっと目を開け、反射的に壁に背をつける。塔の入り口からぞろぞろといくつもの影が侵入してくるのが見えた。
鴉ではない。蛇である。兎もいる。小さなリスやねずみ、鹿や猫といった動物まで。見たこともない昆虫の類や、様々な生き物たちが塔の底に降り立ち、リリーと蜘蛛を取り囲んだ。
彼らはみんな金色の身体をしていた。魔女に力を与えられた者たちの末裔である。
以前、偉い蜘蛛に言われた言葉を思いだす。金の生き物の命を食べたことで、彼らと意思を通わすことができると。
具体的にどうやるのかわからないが、とにかく頭の中に念じてみた。
――助けてくれてありがとう。
すると突然、蛇が笑いだした。表情のない爬虫類が人間のような笑い声をあげるのは実に奇妙な光景だった。
「そんなことしなくてもいい。みんな魔力があるからおまえの言葉はわかるし、俺たち蛇には七色の声帯がある」
それは若い男のような、快活な女性のような、複雑な声音をしていた。呆気にとられ、ぽかんと口を開けるリリーの姿に、細い瞳孔をますます細めて彼は言った。
「いいか、別に助けたんじゃない。俺たちは昔から鴉の奴らが嫌いでよ。ああそうそう、俺は蜘蛛も嫌いだ。元々俺たち蛇の餌だったくせに、魔女のおかげで偉くなりやがったからな」
その言葉を聞いて、彼の後ろにいる二匹の蛇が同時に舌を出した。しゅるしゅると先の別れた舌が震えている。
「鴉が、嫌い……?」
「俺たちは魔女と実際に会ったわけじゃない。だがこれだけは言える。魔女の死後、神の計画だとか言って森を闊歩し、まるで自分たちが森の長だと言わんばかりに偉そうに俺たちを見下すのを許した魔女なんか、ろくでもない奴に決まってる。俺たちが惨めに夜の地を這う一方で、鴉どもは擬態であのクソ忌々しい太陽から守られ、空を飛んで森から抜け出し、散々好き勝手してきたんだ。あいつらのせいで俺たちは苦労してきた。俺だけじゃない。ここにいる生き物たちみんなが同じように、魔女と鴉を恨んでいるのさ」
リリーは改めて周囲を見回した。彼らの目が爛々と光っているのを見て、少なくともその怒りが本物だと察した。
黒い本を思い出す。魔女の眼に見つめられた者たちは、皆彼女の虜になったという。しかし、彼女亡き今、その眼を見ることはもうない。彼らは変異後の格差にただ苦しみながら生き抜かなければならなかったのだ。
「鴉は俺たちに言った。魔女の生まれ変わりが現れたから協力しろと。今度こそ本物に違いないと。そこで俺のダチがよ、本物なら伝承通りその眼を見ればわかると言って、おまえに会いに行ったんだ」
あ、と声をあげそうになった。かつて、リリーは蛇に襲われたことがある。すんでのところで蜘蛛に助けられたが、今でも時折夢に見るほど恐怖が胸に焼きついていた。
「だがあいつは帰ってこなかった。帰ってこないということは可能性はただ一つ。帰ってこられない状況……つまりどこかで命を落としたのさ。俺は躍起になって色々調べて回ってよ、大切なダチがそいつに殺されたってのがわかった」
そいつ、と蛇は蜘蛛の方を顎でしゃくる。傷つきぼろぼろになった蜘蛛の姿に蛇は舌なめずりした。
「なぜあいつが殺されたのか? おまえを襲ったからだ。おまえを襲ったということは、あいつはおまえの眼にはちっとも虜にならなかったのさ! つまりおまえは魔女でもなんでもない、見てくれこそよく似ているかもしれないが、不完全な、ただの人間だ!」





